特集 関東大震災から100年③~帝都復興と今も受け継がれる防災まちづくり~



関東大震災から100年③~帝都復興と今も受け継がれる防災まちづくり~

令和5(2023)年は、大正12(1923)年に関東大震災(大正関東地震)が発生してから100年という節目の年です。10万5,000人もの犠牲者を記録した震災から被災地である東京や横浜はどのように復興したのでしょうか。そして関東大震災の教訓はその後のまちづくりにどのように生かされたのでしょうか。その流れを振り返り、現在の防災まちづくりの進展と課題も含めて整理します。

帝都復興計画

 大正12年9月1日の震災発生時は内閣不在の状態でした。直前の8月24日に加藤友三郎首相が死去していたためです。後任の山本権兵衛首相は、震災を受けて急遽組閣を行い、東京市長を務めた経験のある後藤新平が内務大臣に就任しました。後藤は、震災を都市改造実現の絶好の機会と捉え、震災復興に取り組む機関の設置や、約30億円の復興計画を提唱するなど、地震発生直後から震災復興に積極的に向き合いました。

 9月12日には、「帝都復興に関する詔書」が発布され、帝都復興について審議調査する機関を設定することが明示されました。これを受けて帝都復興審議会と、その事務局として内務大臣の後藤が総裁を務める内閣直属の帝都復興院が設置され、復興計画作成のための体制が整えられました。

 帝都復興院での議論の末、10月23日には主要幹線道路、公園及び広場の設定、中央市場その他の市場の設定、上下水道の改定、運河、橋梁、河川の改修及び新設などを行うとした復興計画の骨子を決定しました。5か年継続事業で、費用は13億円という見積でした。

 しかし、この案は、さまざまな反対を受けました。予算については、大蔵省との折衝で7億円まで削減されたほか、その後の帝都復興審議会でも事業は縮小され、さらに1億円ほど予算から削減され、後藤が主導した「理想形」は財政事情から「現実路線」へと落ち着くことになりました。

震災後に内務省復興局が作成した大東京都市計画道路網図(国立公文書館蔵)

震災後に内務省復興局が作成した大東京都市計画道路網図(国立公文書館蔵)

東京の復興

 東京では、焼失地域の8割以上(920万坪)を65地区に分けて土地区画整理事業を実施しました。域内の約20万棟が移転し、狭い路地と町屋や長屋が密集した江戸時代からの街並みは一掃され、街路や公園等が整備されることで、整然とした近代的街並みが出現しました。

現在の昭和通り。震災復興の第1号幹線道路として建設され、昭和3年に完成。

現在の昭和通り。震災復興の第1号幹線道路として建設され、昭和3年に完成。

復興橋梁として建設された蔵前橋。竣工前(左・土木学会附属土木図書館提供)と現在(右)の姿。

復興橋梁として建設された蔵前橋。竣工前(左・土木学会附属土木図書館提供)と現在(右)の姿。

復興で整備された三大公園の一つ「浜町公園」。竣工時(左・土木学会附属土木図書館提供)と現在(右)の姿。

復興で整備された三大公園の一つ「浜町公園」。竣工時(左・土木学会附属土木図書館提供)と現在(右)の姿。

 街路では南北方向に幅員33~44mの第1号幹線道路(昭和通り)、東西方向に幅員15~36mの第2号幹線道(靖国通り)を十字の軸として、不規則な格子パターンと東京駅を中心にした放射・環状道路を組み合わせた道路網が構築されました。

 橋梁事業は東京市だけでも国が142、市が313の橋を建設するという類のないプロジェクトになりました。隅田川では、相生橋、永代橋、清洲橋、駒形橋、言問橋、蔵前橋などが、神田川では、聖橋やお茶の水橋が、復興橋梁として建設されました。これらの橋梁は、新技術を駆使した多様な構造と美観を重視して設計されています。

 公園や学校の整備も重点的に行われました。震災の教訓を受けて、下町部に隅田公園(5万2,700坪)、浜町公園(1万1,000坪)、錦糸公園(1万7,000坪)の3か所の三大公園が開園し、その後も皇室からの下賜や財閥等からの寄付により、猿江恩賜公園、清澄庭園、安田庭園などの新しい公園が開園しました。

 また、市内で117の小学校が焼失したことから、耐震耐火の鉄筋コンクリート造3階建の復興小学校の建設が進められ、それらに隣接する形で52の小公園が整備されました。これらの公園には火災に強い常緑広葉樹が植えられ、消火にも使える噴水が設置されました。さらに、従来は、築地病院のみであった細民向け医療施設が、新たに5か所建設されたほか、職業紹介所、児童健康相談所、婦人授産所などの社会事業施設も整備されました。また、従来の日本橋魚市場の焼失に伴い、築地などに中央卸売市場が整備されました。

横浜の復興

 横浜では、焼失面積の約1/3にあたる104万坪を13地区に分けて区画整理事業が行われました。

 横浜市は、地形的な制約から、旧吉田新田(現在の関内・伊勢佐木町から吉野町にかけての地域)等を除けば、道路は狭く屈曲していました。そこで、幅員22~36mの幹線道路第1号(神奈川~保土ヶ谷)と、横浜港を起点に羽衣町~宮元町を経て弘明寺に至る道路(幅員22~27m)を軸に、主要幹線が整備されました。

 橋梁事業では、復興局が、平沼橋、築地橋など35橋を、横浜市が、64橋(小橋等除く。)を建設しました。また、元町と本牧を結ぶ山手隧道も復興事業により建設されました。

 公園では、国の事業として新たに野毛山公園(2.2万坪)、神奈川公園(4,400坪)及び山下公園(2.2万坪)の三大公園が設けられたほか、震災火災で破壊された横浜公園(2万坪)及び掃部山公園(4,300坪、2,000坪の敷地拡張)の復旧を行いました。横浜公園には、震災時に多くの住民が避難したことで知られていますが(ぼうさい第107号特集「関東大震災から100年②~あの時その場所で何が起きていたのか~」参照)、震災の瓦礫による埋め立てで生まれた山下公園には、第2次世界大戦の空襲の際に多くの住民が避難することになりました。

震災瓦礫を利用して埋立て、整備された山下公園。竣工時(左・土木学会附属土木図書館提供)と現在(右)の姿。

震災瓦礫を利用して埋立て、整備された山下公園。竣工時(左・土木学会附属土木図書館提供)と現在(右)の姿。

 横浜市では、震災で31の小学校が焼失したことから、新設したものも含めて46の復興小学校が建設されました。震災時には、階段に児童が殺到して下敷きになるケースが多かったことから、各校舎の3か所の昇降所のうち1か所をスロープとしました。

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内閣府政策統括官(防災担当)

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