大正12(1923)年・埼玉県

さいたま市の伝統産業に指定されている「大宮の盆栽」。その成り立ちには関東大震災が大きく関わっています。
大宮盆栽村の発祥は大正14(1925)年に遡ります。当時東京に住んでいた盆栽業者たちは、都市化・工業化に伴う環境の悪化に悩まされていました。そんな中で関東大震災が発生し、東京は甚大な被害を受けました。駒込、巣鴨、本郷などで盆栽業を営んでいた人々も被災し、盆栽に適した土質や水に恵まれた広大な土地を探して移住することを考えました。
東京の郊外、神奈川、千葉などを探し歩いた結果、選ばれたのは「源太郎山」と呼ばれていた大宮公園の北側の広い松林(現在の埼玉県北区盆栽町周辺)でした。盆栽に適した土(関東ローム層の赤土)が入手できたこと、地下水が豊富で井戸を掘る事が容易であったことが決め手になりました。
同年には、自治共同体である「盆栽村」が発足しました。昭和3(1928)年には、全住民20名で「盆栽村組合」を結成し、「盆栽を十鉢以上持つ」「二階家は建てない」「垣根は生垣とする」「門戸を開放する」など居住の規約を定めました。盆栽村は、たちまち評判となり、天皇陛下や政・財界人、海外の要人も立ち寄るほどでした。
盆栽園の数は、最盛期には30を超え、盆栽は大宮の地場産業として定着することとなりました。昭和17(1942)年には盆栽村の重要性が自治体にも認められ、町名が「大宮市盆栽町」となります。その後、戦争の影響で盆栽村は一時的に衰退を余儀なくされますが、戦後には復興し、1980年代のバブル景気をきっかけに盆栽は国際的にも知られるようになりました。現在では名品盆栽の聖地として、日本だけではなく、世界からも多くの愛好家が盆栽村を訪れます。
関東大震災の災いから、移転により新しい土地で盆栽の聖地をつくり上げた盆栽業者たちの不屈の行動を、震災復興の形のひとつとして、後世に伝えていきたいものです。

現在の盆栽村の街並み

発足当時の盆栽村の様子(九蔵園蔵・さいたま市大宮盆栽美術館提供)

盆栽村発足の功労者の一人である清水瀞庵翁の記念碑。盆栽業を営み、関東大震災の後、東京の千駄木から当地へ移転。

明治33年発行の2万分1迅速測図「大宮驛」で見る盆栽村の位置。松林や雑樹の記号が点在するこの土地に盆栽業者たちが移転してきた
![]() さいたま市大宮盆栽美術館 |
盆栽文化振興の核となる施設として、平成22(2010)年に開館したさいたま市大宮盆栽美術館。さいたま市の伝統産業にも指定されている盆栽の文化を広く内外に発信すべく、世界に誇る盆栽の名品や、盆器、盆栽に関わる美術品、歴史・民俗資料等を展示しており、近接する大宮盆栽村の観光の拠点施設にもなっています。外国人観光客も多く訪れることから、展示を英語で解説する「インターナショナル・ギャラリーガイド」も開催されています。 |
表紙の写真
盆栽美術館に併設されている盆栽庭園には、館内最大の盆栽である五葉松「千代の松」をはじめ約60点の盆栽が展示されており、四季折々の美しさを見せてくれます。本館2階の盆栽テラスに上がると、美しい庭園を一望することができます。

さいたま市大宮盆栽美術館提供
Build Back Betterとは
「Build Back Better(より良い復興)」 とは、2015年3月に宮城県仙台市で開催された「第3回国連防災世界会議」の成果文書である「仙台防災枠組」の中に示された、災害復興段階における抜本的な災害予防策を実施するための考え方です。
本シリーズでは、災害が発生した国内外の事例を紹介し、過去の災害を機により良い街づくり、国土づくりを行った姿を紹介いたします。