特集 関東大震災から100年②~あの時その場所で何が起きていたのか~



関東大震災から100年②~あの時その場所で何が起きていたのか~

吉田初三郎「關東震災全地域鳥瞰圖繪」国際日本文化研究センター所蔵

吉田初三郎「關東震災全地域鳥瞰圖繪」国際日本文化研究センター所蔵

 令和5(2023)年は、大正12(1923)年に関東大震災(大正関東地震)が発生してから100年という節目の年です。首都直下型地震と思われがちな大正関東地震ですが、実際には相模トラフを震源とする海溝型地震でした。また関東大震災は10万5,000人の犠牲者のうち9割が焼死であった(内閣府資料)ことも相まって「東京の大火災」の印象が強いですが、揺れによる倒壊、液状化、津波、土砂災害など、さまざまな被害を広範囲にわたって記録しています。第1回ではこうした「火災以外の被害」にスポットを当て、「あの時その場所で何があったのか」を振り返ります。

※火災以外の被害については「ぼうさい」106号をご覧ください。

不運だった当日の気象条件

 「江戸時代に幾度となく大火に襲われた江戸の町ですが、明治維新以降は銀座レンガ街の建設をはじめ、東京防火令の公布や都市計画法・市街地建築物法の施行などもあり、大きな火災は減少していました。また関東大震災当時の警視庁消防部は、最新技術を活用する消防組織となっていました。それでも同時多発的な火災と、地震による断水は想定されておらず、結果的被害を食い止めることができませんでした。

 東京市(当時)の火災は9月1日11時58分の地震発生直後から発生し、延焼しながら9月3日午前10時に鎮火するまで46時間にわたって続きました。全出火点134か所のうち即時消し止められたのが57か所で、消し残った77か所が延焼火災となり、市域全面積の43.6%にあたる34.7km2を焼き、多くの犠牲者を出すこととなりました。特に不運だったのが当日の気象条件でした。日本海には弱い台風があったことから、火災が発生した時間帯には風速10mを越える強い風が吹いており、しかも南風から西風、北風、再び南風と風向きが変わり続けたことが延焼範囲を拡大し、避難者の逃げ惑いを生じさせてしまったのです。

悲劇の現場となった被服廠跡地ひふくしょうあとち

 両国駅の北に位置する現在の横網町公園はもともと陸軍被服本廠があった土地ですが、関東大震災前年の大正11(1922)年に赤羽に移転したことから、広い空き地となっていました。火災で焼け出された多くの人々が、安全と思われていたこの被服廠跡地に避難してきていました。広い空間ではあるものの、この時点で被服廠跡地は四方を火災域に囲まれており、既に逃げ場のない状態になっていました。

東京市火災動態地図「日本橋」(内閣府)

東京市火災動態地図「日本橋」(内閣府)

被服廠跡地を襲う火災旋風の火元となった東京高等工業学校の被害の様子(土木学会附属土木図書館提供)と現在の学校跡地の様子。火災旋風は広い隅田川を越えてやってきた

被服廠跡地を襲う火災旋風の火元となった東京高等工業学校の被害の様子(土木学会附属土木図書館提供)と現在の学校跡地の様子。火災旋風は広い隅田川を越えてやってきた

 そこへ火災旋風が襲います。北側、東側、南側から次々と火の手が迫ってきたことに加えて、隅田川の対岸にあった東京高等工業学校を火元とする大規模な火災域から発生した火災旋風が、川を越えて西側から襲ってきたことで、被服廠跡地も炎に包まれることとなってしまいました。

 さらに被害を大きくしたのが、避難者たちが持ち込んだ家財道具などの可燃物でした。飛び火や火の粉で着火し、折からの強風や火災旋風によりあっという間に被服廠跡地は火の海になってしまいます。また、旋風は人や荷車、屋根瓦、トタン板、石やレンガも空中に巻き上げたという証言もあり、旋風そのものも犠牲者を増やしたと考えられます。

 被服廠跡地では約3万8,000人もの命が奪われました。周辺で亡くなり被服廠跡地に運び込まれた人も含め、最終的に約4万人の遺体がこの場所で火葬されました。昭和5(1930)年には同地に横網町公園が開園し、震災慰霊堂が建てられて遺骨が収容されています。また翌年には関東大震災とその復興を後世に伝えるための復興記念館が完成しました。

 その後第二次世界大戦の空襲により周囲は再び焦土と化します。その後戦災による身元不明の遺骨を合祀する形で慰霊堂は「東京都慰霊堂」と改称され、復興記念館とともに当時の悲劇を現在に伝えています。

横網町公園に建つ東京慰霊堂と東京都復興記念館

横網町公園に建つ東京慰霊堂と東京都復興記念館

奇跡的に延焼を逃れた神田和泉町・佐久間町

 こうした広域の延焼を奇跡的に食い止めた地域があります。火災動態地図で延焼地域の中で島のように空白域となっている神田和泉町・佐久間町です。この地域が延焼を免れたのは住民たちの必死の消火活動もさることながら、西側に秋葉原貨物駅、南側に神田川があり、北側と東側は不燃建物に囲まれており木造密集市街地と接していなかったこと、そして震災前年に完成したポンプ所の存在など、いくつかの好条件が重なったことも幸運でした。

 震災の記憶をとどめていた旧和泉町ポンプ所は2017年にその役目を終え、奇しくも震災から100年目の2023年、解体されることとなりました。

写真上:一角だけ焼け残る奇跡をもたらした旧和泉町ポンプ場。1922年完成当時の姿(土木学会附属土木図書館提供)と解体工事に入った2023年6月現在の様子写真右:神田和泉町に建てられた「防火守護地」の碑

上:一角だけ焼け残る奇跡をもたらした旧和泉町ポンプ場。1922年完成当時の姿(土木学会附属土木図書館提供)と解体工事に入った2023年6月現在の様子
下:神田和泉町に建てられた「防火守護地」の碑

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