特集 関東大震災から100年①~あの時その場所で何が起きていたのか~



特集:関東大震災から100年①~あの時その場所で何が起きていたのか~

 令和5(2023)年は、大正12(1923)年に関東大震災(大正関東地震)が発生してから100年という節目の年です。首都直下型地震と思われがちな大正関東地震ですが、実際には相模トラフを震源とする海溝型地震でした。また関東大震災は10万5,000人の犠牲者のうち9割が焼死であった(内閣府資料)ことも相まって「東京の大火災」の印象が強いですが、揺れによる倒壊、液状化、津波、土砂災害など、さまざまな被害を広範囲にわたって記録しています。第1回ではこうした「火災以外の被害」にスポットを当て、「あの時その場所で何があったのか」を振り返ります。

西洋建築の多くが倒壊した激しい揺れ

 「浅草十二階」と呼ばれた凌雲閣は、明治23(1890)年の竣工当時国内で最も高い建造物(52m)でした。日本初のエレベーターを備えた八角形のレンガ造り(11・12階のみ木造)の展望塔として浅草で人気スポットとなっていましたが、地震 の激しい揺れで、8階から上が折れる形で大破、中にいた人の多くが犠牲になりました。倒壊の危険があるため、その後爆破解体されてしまいました。

倒壊した浅草凌雲閣(土木学会附属土木図書館提供)
同じ場所の現在の様子

倒壊した浅草凌雲閣(土木学会附属土木図書館提供・写真上)と同じ場所の現在の様子(写真下)。 飲食店の壁に描かれたイラストがわずかに名残をとどめる

 東京・丸の内では建設中の内外ビルディング(8階建て)が倒壊し、46人の作業員が圧死(内閣府資料)したとされています。また横浜でも多くの官公庁やホテルなど多くの石造り、レンガ造りの建物が倒壊し、中にいた人が犠牲になりました。

完成を目前に倒壊した内外ビルディングの様子(土木学会附属土木図書館提供)。 現在は丸の内三井ビルディングが建つ

完成を目前に倒壊した内外ビルディングの様子(土木学会附属土木図書館提供)。 現在は丸の内三井ビルディングが建つ

 千葉県南部の安房地域も強い揺れに襲われ、北条町(現在の館山市中心部)ではほとんどの建物が崩壊するという惨状でした。地区内の北条小学校は当日が始業式で、新校舎の落成式を迎えていましたが、新しい校舎は落成式からわずか2時間で消滅してしまいました。また、房総半島最南端の野島崎では、日本で2番目に点灯した洋式灯台である野島崎灯台が折れて倒壊しました。

倒壊した野島崎灯台(土木学会附属土木図書館提供)
現在の野島崎灯台

倒壊した野島崎灯台(土木学会附属土木図書館提供・写真上)と現在の野島崎灯台(写真下)

 西洋建築を模した組石造り・レンガ造りの建物は関東大震災で大きな被害を受けており、大正13(1924)年に市街地建築物法(現建築基準法)が改正され、耐震計算が義務づけられるきっかけとなりました。

液状化で地上に現れた遺跡

 関東大震災では液状化の被害も広域にわたって発生しています。海岸沿いの干拓地や埋立地に加えて、旧河道(かつての河川の跡)で多く発生しており、東京では足立区と葛飾区の区界を流れる古隅田川沿いで多くの被害が見られました。古隅田川は地震当時幅2.5m~3mという小さな川でしたが、江戸時代に利根川の東遷(江戸に流れてきていた利根川を東へ流れるように移した大工事)が行われるまでは利根川の流路となっていたため、緩い砂が堆積していたことが大きな要因とされています。現在は古隅田川も多くの部分が暗渠となっています。

 神奈川県茅ケ崎市では、液状化した水田の中から橋杭が地上に現れました。見つかった遺跡を歴史学者が調査したところ、鎌倉時代に源頼朝の重臣稲毛重成いなげしげなりが当時の相模川に架けた橋の橋脚であることが考証され、国の史跡に指定されました。また液状化現象の痕跡とともに、橋脚の出現状況が関東大震災の地震状況を残す遺産としても評価され、平成25(2013)年には液状化現象を対象とした初めての天然記念物に指定されています。

古隅田川の暗渠上にある道路。かつての利根川の流路だった

古隅田川の暗渠上にある道路。かつての利根川の流路だった

液状化により地上に現れた旧相模川橋脚

液状化により地上に現れた旧相模川橋脚

無視できない津波の被害

 見過ごされがちですが、関東大震災は震源域が相模湾内であったことから、伊豆半島、伊豆大島、三浦半島、房総半島の海岸には津波が押し寄せています。津波の高さは伊豆大島や静岡県熱海市で最大12m、千葉県の現館山市で9mに達し(内閣府資料)、早いところでは地震後わずか5分で来襲したとされています。

現在の海岸橋交差点付近には漁船が打ち上げられた

現在の海岸橋交差点付近には漁船が打ち上げられた

津波が遡上したとされる延命寺橋から下流方向を見る。写真側は当時水田だった

津波が遡上したとされる延命寺橋から下流方向を見る。写真側は当時水田だった

 鎌倉では地震の直後から潮が引き、その後繰り返し津波が押し寄せました。津波の高さは5~6mとされ(9mと記されている文献もあり)(内閣府資料)、現在の海岸橋交差点付近に漁船が打ち上げられた(萬年他2013論文※)ほか、津波が滑川なめりがわに浸入して延命寺橋付近まで遡上した記録があり(内閣府資料)、標高の低い滑川の東側(当時は水田地帯)は広く浸水したと推測されています(萬年他2013論文※)。また津波は江ノ島電鉄の由比ヶ浜ゆいがはま停留所(現在の駅とは異なる)まで達したとする記録もあり、標高4~5m付近まで遡上していたと考えられます(萬年他2013論文※)。

※神奈川県逗子市,鎌倉市,藤沢市における1923年関東大震災による津波~新資料と国土地理院DEMに基づく再検討~,萬年一利他,歴史地震第28号(2013)

かつての江ノ島電鉄由比ヶ浜停留所があったあたり。津波はここまで達した

かつての江ノ島電鉄由比ヶ浜停留所があったあたり。津波はここまで達した

 国鉄熱海線(現JR東海道本線)根府川ねぶかわ駅の南側で相模湾にそそぐ白糸川しらいとがわの河口付近では、地震発生時に20人の子どもたちが遊んでいましたが、本震から5分後に押し寄せた高さ5~6mの津波の犠牲になってしまいました。不運なことにこの時は、地震により白糸川上流の大洞山おおほらやまが崩壊し、岩屑がんせつなだれ(山津波)が川を下ってきたため、河口付近は津波と山津波に挟み撃ちされる状況になったことで、子どもたちは逃げ場を失ってしまったのです。

白糸川河口付近の海岸。左手から津波、右手から岩屑なだれが襲ってきた

白糸川河口付近の海岸。左手から津波、右手から岩屑なだれが襲ってきた

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