過去の災害に学ぶ23

1923年9月1日 関東大震災 その2

10万人余りの命と、200万人余りの家を奪った関東大震災。
明治以降の自然災害で最大の犠牲者が発生しました。
前回は(『広報ぼうさい』5月号に掲載)、その人的災害の9割をもたらした 火災に関して報告しましたが、今回のテーマは災害発生後の応急対応です。
大規模地震災害に対する備えがほとんどなかった当時の人々が どのような自助・共助・公助で対応したのかを報告します。

文:鈴木淳(東京大学大学院人文社会系研究科・文学部日本史学研究室 准教授)

避難した被災者の助けになったのは 自らも被災した周辺住民の助力だった

関東大震災時に、大規模地震災害に対する備えはほとんどなかった。明治二十四(一八九一)年の濃尾地震を契機に設けられた震災予防調査会の一員今村明恒は、明治三十八 (一九〇五)年に将来東京で大きな地震被害が生じる可能性を指摘した。しかし、マスコミや住民の過剰反応を見て、今村の上司の東京帝大教授大森房吉はそれを否定した。東京府・ 市の防災計画は水害、警視庁の警備計画は一部地域での騒擾と、明治末年から何度か経験した事態を想定するだけで、突然市の全域が大きな被害を受けることは想定外だった。

今の二十三区より狭い当時の東京市域の住民約二百五十万人のうち百五十万人ほどが家を失う事態に対して、準備のない公的機関ができることは乏しかった。もちろん被災地の警察や軍隊は、直後から所在地周辺で救護や消防を行ったが、電話や電信が途絶したため、組織的な動きは遅かった。東京市が避難所としてまとまって提供できたのは市立小学校であったが、全百九十五校のうち百十一校が焼失したので、破損している残りの小学校に学級あたり二十名を収容したとして、ようやく三万名、被災者の五十人に一人しか収容できなかった。また、各区役所や警察署は炊き出しなどによって被災者への当座の食物提供を行なったが、その供給食数は、地震発生翌日の二日夜までに二十五万食程度にとどまった。家を失った人々の一日の昼から二日夜までの五食を計算すれば、わずか三十分の一である。

公的な援助がおよばない中で、被災者たちは自助努力を行い、また、他の被災者を助けた。すぐには焼失しなかった地域では、住民たちが戸外に持ち出した七輪や急造した竈で 米を炊き、握り飯として分け合った。営業を続けた商店で食料を買った人も多かった。上野公園などの屋外に避難した住民は、落ち着くと早速、手近な材料で小屋を作り始めた。

自助に次いで被災者の助けとなったのが、自らも被害を受けていた周辺住民たちの助力である。

東京には江戸以来の大火の際の習慣があった。大火を知れば炊き出しをして握り飯を作り、焼失地域やその周辺の知人や親戚の見舞いに出かける。家を失った知人がいれば自分の家に連れ帰る。関東大震災時にも、探しに来た人に救護され、収容された例は多い。公的な救護所に収容された負傷者も、応急手当後、知り合いによってより環境の整った病院や家に運ばれたことが多い。延焼に追われた人々は、迎えを待つ間もなく、非焼失地域の知人の家を頼り、あるいはグループで助け合いながら誰かの知り合いの家をめざした。いささかでも余裕がある家や、華族の屋敷、寺院などには、とりあえずの行くあてがない人々も収容され、非焼失地域の家々は被災者に溢れた。

基本的に自助、共助によりつつ、それで救いきれない部分を最低限カバーする形で公助が行なわれたのである。その公助も、軍や日本赤十字が主力となった技術作業や医療救護をのぞけば、全国から青年団、在郷軍人会といった集団で来援して府や市の指揮を仰いだボランティアたちの力によるところが大きかった。

江東地区では市域内の市街地のほとんどが焼失したため、亀戸など郡部のわずかな非焼失市街に地元住民や現地の公的機関の努力では対応しきれない数の被災者が流れ込み、救護が行き届かず混乱が生じた。東京周辺ではここに公的機関による救護の重点を置くべきであったが、それが認識されたのは五日以降である。大規模災害への対応で重要な役割を果たす自助や共助の力には、被災状況や地理的条件で大きな差が生じる。公的機関はその状況を正確に把握して不足を補う行動をとる必要がある。

前回と今回の内容は中央防災会議の災害教訓の継承に関する専門調査会報告書によるところが大きい。報告書は中央防災会議のホームページhttps://www.bousai.go.jp//kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/index.htmlで見ることができる。

芝増上寺境内で行なわれた炊き出し

線路上に避難して仮小屋を構えた被災者

地方へ避難する人々。このような旅は沿線各駅で の地元住民による接待、救護活動によって支えられていた

写真出典:内務省社会局「大正震災志」

関東大震災PROFILE
プレート境界地震
マグニチュード:7.9(11時58分)/死者行方不明者:105,385人/焼失家屋:212,353戸/非焼失全潰家屋:79,733戸/流失・埋没家屋:1,301戸

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