過去の災害に学ぶ 22

1923年9月1日 関東大震災 その1

関東大震災が発生したのは土曜日の正午ごろ。
昼食時の火の使用と重なったこともあり、倒れた家屋から次々と出火し、東京、横浜を中心に大火災に見舞われました。
10万人を超える犠牲者は明治以降の自然災害の中では最大の被害となっています。
9月1日の「防災の日」は、この日に起きた関東大震災の教訓を忘れない、という意味を含め、1960年に制定されました。

文:鈴木淳(東京大学大学院人文社会系研究科・文学部日本史学研究室 准教授)

下敷きになった人の救出に追われ、火に立ち向かうことができなかった

大正十二(一九二三)年九月一日の正午ころに発生した地震に起因する関東大震災は、十万人あまりの命と、二百万人あまりの家を奪った。

人的被害の九割は、火災によって生じた。東京では七七の火元から延焼して、三日朝まで燃え続けた。

東京には消火栓を持つ水道が隈なく敷設されていたので、消防を担当した警視庁はポンプ自動車三八台を主力とし、江戸町火消の流れを汲む予備消防の消防組には、消火栓に直結して放水するホースを配備していた。しかし、地震により水道は断水し、予備消防は一挙に無力となった。

地震直後に火災が広まったのは、家屋の倒壊が多かった西神田、浅草、本所、深川であった。昼食前でほとんどの家に火の気があり、倒壊は出火につながりやすかった。周辺住民は下敷きになった人々の救出に追われ、火に立ち向かい、あるいは直ちに避難することは困難だった。午後四時に四方を火に囲まれて約四万名が犠牲になった被服廠跡や、それより早く千名以上が亡くなった浅草の田中小学校での惨劇は、建物の耐震・不燃化の必要性を示している。

一日の夜に入ると、風にあおられて最大で一時間に八二〇メートルという急速な延焼が進み、家屋の倒壊が少なかった地域も焼失した。それでも、風向きや地形を生かした消防活動が成功した場所も多い。中でも秋葉原駅東側の神田和泉町、佐久間町では千六百戸あまりが焼け残った。

この地域は比較的不燃建築が多く、水利に恵まれ、延焼が迫るまでの時間的余裕もあった。そこで住民たちは、江戸時代からの習慣であった飛び火防ぎ、延焼してくる側の建物の引き倒し、バケツリレーなど三〇時間におよぶ消防活動を繰り広げた。

結果的に広大な焼失地域の中にここだけが焼け残ったが、住民が四方を火に囲まれたことはなく、それゆえ、落ちついた対応が可能だった。一日の夜に西から火が迫ると、住民たちの多くは一・五キロほど北の上野公園に避難し、消防にあたろうとする人だけが町内に残った。この避難経路が火災の脅威を受けたのは二日の午後以降であったが、避難先で一夜を明かした住民はその前に町に戻って消火活動に加わった。鎮火後半日以上たった南側の焼跡への避難が可能になっていたからである。

この地域に消防用ガソリンポンプが二台存在したことも幸いだった。一台は三井慈善病院の自衛用で、もう一台は町内のポンプ製造会社帝国喞筒の引渡し前の製品であった。延焼や飛び火を防ぐため、燃えていない家や燃えはじめた物に水を掛けるのはバケツで十分だが、ポンプがあれば炎上中の建物にも放水して、火勢を弱めることができる。三井慈善病院のポンプは病院周辺で活動して町の一角を守り、二日の午後にようやく登場した帝国喞筒のポンプは、住民たちが集めたガソリンを用いて、最後まで消防の主力となった。

町を守りぬくことだけが消防の効果ではなかった。浅草の老松町は二日の朝に全焼した。しかし、前日に消防隊とともに隣町まで延焼してきた火災に立ち向かい、一度は延焼を阻止していたので、半日たった隣町の焼跡に家財と共に避難して、一人も死傷者を出さなかった。

深川の門前仲町では、一日の夕方に地元の在郷軍人や青年団が近くの陸軍糧秣本廠と商船学校からポンプを借りて東側からの延焼を防いだ。この場所は僅か三時間ほどの後に反対方向からの延焼で燃えたが、この間、北側から迫った火に追われた人々に洲崎埋立地への貴重な避難路を提供することができた。

このように、退路が確保できる範囲内で、可能な消防活動を行なうことは、さまざまな形で被害の軽減につながった。予備消防や町内にガソリンポンプがあればもっと、という反省は今に生かされ、消防団や自主防災組織にポンプが配布されている。もちろん、東京帝国大学が整備不良でガソリンポンプを使えずに多くの建物を焼失した例もあり、ポンプがありさえすればよいわけではない。

東京上野周辺を空より撮影(東京市『東京震災録』)

震災当日、火災により発生した入道雲(内務省社会局『大正震災志』)

現銀座四丁目交差点付近の焼跡(東京市『東京震災録』)

関東大震災当時の市街地と焼失区域

震災当日午後4時現在の焼失区域(1923関東大震災報告書第二編)

関東大震災PROFILE
プレート境界地震
マグニチュード:7.9(11時58分)/死者行方不明者:105,385人/焼失家屋:212,353戸/非焼失全潰家屋:79,733戸/流失・埋没家屋:1,301戸

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