記者の眼

忘れないよう伝え続ける…

 私は阪神・淡路大震災を経験していない。兵庫県で生まれ育ったが、震災が起きた1995年はまだ東京の大学に通っていた。だが、取材で「神戸新聞ですが……」と切り出すと、「震災のときは大変でしたね」と言われ、戸惑うことがある。災害や防災にまつわる取材ではなおのことだ。
 記者1年目。初めて、阪神・淡路大震災が起きた1月17日の神戸を経験した。神戸市灘区六甲道駅西地区の犠牲者追悼式だった。神戸の中心地「三宮」からJRで2駅。震災前、494世帯、1098人が暮らす住宅街だった。震度7の激震に襲われ、地域の約7割の建物が全半壊。多くの人が倒れた家の下敷きになり、12歳から89歳まで61人の命が奪われた。震災後の土地区画整理で多くの人が自分の土地を離れていたため、6年後にようやく、地域の人たちが自らの手で犠牲者をとむらう式典を開いた。
 午前4時半ごろ。まだ家がまばらな地域の一角の空き地に着いた。ドラム缶にまきをくべて暖を取りながら、地震が起きた5時46分を待つ人たちがいた。家族や友人を亡くし、家を奪われた人たちだった。取材で話を聞くのは当たり前なのだが、いたたまれない気持ちになり、声を掛けていいものかためらった。思い切って、近くにいた若い男性に話し掛けた。
 「あの日のことはしゃべりたくない」
 夜明け前の暗がりの中で、男性の表情はよく分からなかったが、それ以上、話を続けることができなかった。すると、初老の男性が声を掛けてくれた。彼が両親と妹を亡くしたこと、震災後初めて、1月17日の午前5時46分にここを訪れたことを教えてもらった。震災の犠牲者は6434人。それぞれの遺族にそれぞれの思いがある。だが、何のためにそうした人たちの悲しみを伝えるのか。あの日を経験していない私に何ができるのかと考えてきた。
 2年半前、東京支社に赴任し、内閣府をはじめとする国の防災対策を取材するようになった。中央防災会議の東南海・南海地震等に関する専門調査会の座長、土岐憲三立命館大学教授は「調査の結果を国や自治体の対策に生かしてもらうのはもちろんだが、防災対策が最も遅れている個人にどれだけ対策をとろうと思ってもらえるかが大切なんだ」と語った。その言葉に勇気づけられた。
 六甲道駅西地区は今、区画整理が完了し、真っすぐな道路が伸び、モダンな住宅が整然と並ぶ。住民たちは、地区内にできた公園に慰霊碑を建て、「あの刻(とき)を忘れない」という言葉とともに、犠牲になった61人すべての名前を刻んだ。今年の1月17日、その慰霊碑の前で、あの若い男性が神戸新聞記者の取材を受けたことを紙面で知った。あの日、実家を離れて生活していた彼がわが家にたどり着いたときには日が暮れていたこと、両親と妹は重い梁(はり)の下敷きになって亡くなったこと、両親と妹の亡きがらを救い出すまでに1週間を要したこと……。時がたち、私が声を掛けたとき、彼が口にはできなかったことを答えていた。
 たとえ、経験していなくとも、震災や災害で被災した人たちを通し、悲しみや恐ろしさを学ぶ。そして、忘れ去られることのないよう伝え続ける。そのことで、国や自治体、市民が「命」を守るための防災対策を考えるきっかけになると信じ、これからも書き続けていきたい。

山路進さん

神戸新聞東京支社編集部
山路 進
やまじ すすむ
2000年、神戸新聞社入社。三木支局、社会部などを経て、06年から東京支社編集部。

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内閣府政策統括官(防災担当)

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