第4節 関東大震災を契機とした災害対策の充実・強化
(耐震規定の制定)
関東大震災が発生した大正時代末期の東京では、旧来からの木造建築物、明治以降に建築されたレンガ造建築、地震に縁のない外国の建設会社が関わった高層ビル、日本の研究者が独自に考案した耐震建築など、耐震構造化が考慮された建築物とそうでないものが混在した状態にあった。
このような中、関東大震災による建築物の被害は、レンガ造、木造及び耐震構造化を考慮していない外国流のビルに多く発生し、日本流の耐震建築には少なかった。例えば、丸の内で当時施工中だった日本興業銀行は、耐震設計研究で有名な佐野利器(としたか)に学んだ建築家の内藤多仲(たちゅう)が構造設計を手がけたが、同ビルがほとんど無傷でこの地震に耐えたのに対して、外国の建設会社の手による他のビルの中には、施工中に倒潰し作業員が犠牲になったり、大規模な改修を余儀なくされたりしたものもあった。
関東大震災による建築物の膨大な被害を直接の契機として、大震災の翌年の大正13年(1924年)には「市街地建築物法施行規則」(大正9年内務省令第37号)の構造強度規定が改正された。これによって、法令による地震力の規定が世界で初めて制定された。戦後、「市街地建築物法」(大正8年法律第37号)は、全国を対象とした「建築基準法」(昭和25年法律第201号)に置き換わるが、当時制定された耐震規定は、外観を変えながらも現在の耐震基準に至っていると評価されている。
(地震研究の進展)
関東大震災は、地震という現象を科学的に追求するとともに、地震防災に関わる研究を積極的に進めることの重要性を認識させることになった。関東大震災に先立つ明治24年(1891年)の濃尾地震災害を契機として震災予防調査会が既に設立されていたが、これに代わる新しい研究機関として、大正14年(1925年)に東京帝国大学(当時)に地震研究所が設立された。
地震研究所は、その官制(設置規定)において、「地震研究所ハ地震ノ学理及震災予防ニ関スル事項ノ研究ヲ掌ル」とされており、地震の学理が第一に挙げられている。それまでの統計的研究や観測に重点を置いた地震研究ではなく、振動工学や物理学、地球物理学等の立場から地震現象を理解しようとするものだった。
その後、地震学は大きく発展し、関東大震災当時はよく理解されていなかった地震発生のメカニズムの解明や高度な地震観測網の整備が進み、今後予想される巨大地震の予測や地震発生時の即時の情報発信など、今日の地震防災対策の基礎となっている。