令和5年版 防災白書|特集1 第1章 第2節 関東大震災の応急対策


第2節 関東大震災の応急対策

(政府の初動体制)

関東大震災は、内閣総理大臣が空席の中で発生した災害だった。8月24日に当時の加藤友三郎内閣総理大臣が現職のまま死去し、発災当日は、山本権兵衛内閣の組閣に向けて作業中の折だった。山本内閣の親任式が行われたのは震災翌日の9月2日夜だったが、それに先立ち、2日午前中の臨時閣議において臨時震災救護事務局設置及び戒厳令の公布が決定された。

臨時震災救護事務局(図表1-5)は、内閣総理大臣を総裁、内務大臣を副総裁として、内務省に設置された。事務局の第1回会合が開かれたのは、発災から約27時間が経過した2日午後3時頃とされている。

図表1-5 臨時震災救護事務局の執務状況及び組織
図表1-5 臨時震災救護事務局の執務状況及び組織

内閣総理大臣の空席に加え、応急対策の中心を担うべき内務省と首都の治安を掌る警視庁の本庁舎が全焼するなど、政府自体が被災者となったことも初動の遅れの原因となった。加えて、当日がたまたま半日勤務の土曜日であったことから、政府や自治体の職員の多くが家族の安否確認も兼ねて地震発生直後に帰宅していたことも初動に悪影響を与えた。

また、軍隊は、9月3日に関東戒厳司令部が設置されて以降、組織的な活動を開始した。

(被災者の救護及び消火活動)

都市部では、延焼火災が発生したため、倒潰建物からの救出、負傷者の手当てとともに、消防が当面の重要な課題となった。また、被災地では主に火災のため家屋や食料を含む物資が失われ、交通機関や橋の被害により、地域外への脱出や地域外からの物資の搬入も困難であった。このような中、各地において被災者の救護及び消火活動が行われた。

東京市では、地震発生直後から火災が発生していたが、地震の揺れにより電話や火災報知器のほとんどが破損して不通となった。また、水道が断水する中で著しく消防力が低下し、消防機関や住民の消火活動にもかかわらず、延焼火災は地震発生後2日近く続いた。その結果、焼失面積は当時の市域面積の43.6%に上った。

当時は災害時に避難する場所等は定められておらず、人々は、出火点や風向、人の動きによって、上野公園や皇居、靖国神社等の比較的広い空間に避難した(図表1-6)。火災に追われて避難した後、持ち込んだ家財道具や輻射熱によって避難先にて火災が発生し、本所区横網町の被服廠跡のように、多くの死者が発生してしまった場所もあった。

図表1-6 東京市における震災直後の主な避難場所と避難人口
図表1-6 東京市における震災直後の主な避難場所と避難人口

これらの避難場所を中心に東京府や東京市、警視庁による救護活動が行われたものの、発災翌日までに公的な食料配給を受けられたのは10人に1人程度であり、組織的な配給体制は9月6日頃から実施されるなど、食糧供給・救護体制が整うまでに一定の期間を要した。

(情報の途絶及び流言飛語の発生)

日本でラジオ放送が始まったのは震災発生から2年後の大正14年(1925年)であり、震災当時の情報発信手段は電信、電話、新聞等であった。震災直後、報道・通信機関はその機能を停止してしまい、大火災で生じた爆発や飛び火、井戸水や池水の濁り等が、爆弾投擲(てき)、放火、投毒によるものなどといった、根拠のない噂が広まった。こうした流言飛語が広まることによって、朝鮮人の殺傷事件などが発生したという調査報告3もなされている。

(住民同士の助け合い)

当時の想定を超える規模となった関東大震災では、住民同士の相互の助け合いが救護の中心となった。各地で、知り合った被災者を宿泊させたり、食糧を分け与えるなどの共助の取組が行われるとともに、炊き出しや町内の警備のために団結するなど、住民の活動が大きな役割を果たした。

当時は、避難所をあらかじめ指定する仕組みはなく、学校、官公庁、社寺境内や華族・富豪等の大邸宅が開放され、避難者を収容した。また、公的な食糧の配給が開始された後には、町内会が取りまとめて各家に食料を配布する等の取組も行われた。さらに、各地に設けられた救護所については、この町内会のほか、青年団や在郷軍人会などの応援を得て活動するなど、現在で言うところのボランティアの活動が行われていた。

(来援救護団、外国政府等による救援)

他府県から来援した救護団など、公私様々な団体が救護所の運営などの救護活動を担った。特に、東京市の焼失地域と都心部での公的な救護活動は、群馬県の救護団が9月3日以降に到着してから本格化したとされている。その後、11月初旬までに、東京府及び東京市が受けた地方からの応援団体(青年団、在郷軍人会、消防隊その他救護団体)の数は、1道1府18県の181団体、延べ2万3,357人に上った。4

また、より被害が甚大だった横浜市では、公的機関による救護がなかなか進まず混乱が生じた。このため、他県からの来援救護団のほか、民間の汽船会社や外国政府等による救援も重要な役割を担った。例えば、震災当時横浜港に停泊していた民間汽船会社の船舶は、被災者を収容したほか、神奈川県の県港事務所や税関等の仮事務所の設置場所ともなった。さらに、イギリス、フランスなどの汽船会社の船舶やアメリカ等の艦船も被災者の救援や神戸港への輸送などを行った。


3 中央防災会議(2009)「関東大震災報告書 第2編」p206

4 中央防災会議(2009)「関東大震災報告書 第2編」p.140


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