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※「国土庁防災局」は、2001年より、「内閣府(防災部門)」になりました。
日本の震災対策における「地震被害想定」の活用について
 

1.我が国における「地震被害想定」の検討の経緯
-1- 1970年代まで
 我が国における地震の被害想定の検討は古くから進められており、1905年(明治38年)には、東京帝国大学の今村助教授が発表した「市街地に於る地震の生命財産に対する損害を軽減する簡法」において東京の地震被害想定が示されている。

 その内容は、下町、山手の地盤の違いによる建物被害の様相や、石油燈の転倒による同時多発火災の危険性を指摘し、火災のない場合で、圧死者3,000、全壊家屋30,000、火災のある場合で死者10万人以上と被害を推計するものであった。この想定は、石油燈を電化すること等による地震対策の推進を主張するためのものであったが、地震発生危険性や被害の甚大さばかりが喧伝され浮説が流れる等混乱を生じたことから、同大学大森教授による人心を安定させるための発表等が行われるところとなった。

 その後、関東大震災(1923年)、函館、静岡の大火などの経験から「火災に於ける延焼速度」(1942年:東京消防研究会)の研究等が進められ、木造家屋の密集する市街地の消防活動を効果的に実施するための市街地火災被害想定が行われるようになった。
1961年(昭和36年)には、東京消防庁の設けた委員会において「東京都の大震火災被害の検討(効果に対する資料)」が発表され、関東地震が再来した場合の倒壊数、出火数、 消防活動の効果、焼失面積の算定等が想定されている。この後、新潟地震(1964年)等を契機に、東京都においては、広域避難場所計画の根拠等として被害想定が見直され、神奈川県、川崎市においても被害想定調査が始められた。

 さらに、1968年の十勝沖地震の発生等を契機とし、横浜市、大阪市、静岡県、千葉県、埼玉県、大阪府、三重県等においても被害想定の作業が始められている。中央政府においても、1968年(昭和43年)に消防審議会による被害想定の検討が開始され、以後、科学技術庁、建設省等においても被害想定手法の調査が始められている。

 1970年代には、現在一般的となっているような、想定する地震の震源の設定、地震動分布の推計、既往地震等の地震動と被害の相関から求めた被害率等を活用した被害の推計等を一連のロジックで想定する「被害想定」手法が確立し、埼玉県の被害想定等において活用され始めた。
-2- 1980年代〜阪神・淡路大震災まで
 国土庁では、1980年に政府として初めて南関東地域における関東大震災タイプの地震の総合的な地震被害想定の調査を開始した。調査は数年で一定の推計結果を算出したが、結果のみを公表した場合の悪影響を避けるため、合わせて応急対策計画を策定することとなり、1988年になって「南関東地域震災応急対策活動要領」を政府の中央防災会議で決 定するとともに「南関東地域地震被害想定調査の結果」を公表した。

 中央防災会議では、その後、関東大震災のような海溝型の地震が再来するまでの間に、直下型の地震が発生する切迫性が高いという諮問委員会の報告(1988年)等を受け、直下型地震の被害想定についてもその必要性を認め、1992年に決定された「南関東地域直 下の地震対策に関する大綱」において、地方公共団体において被害想定を実施すること、中央政府において被害想定手法の研究、提供等の支援を進めることが規定された。
-3- 阪神・淡路大震災以降
 阪神・淡路大震災では、現代都市の直下における初めての地震として、これまで実デー タの無かった事象についても、数量的なデータ等が多く記録された。このため、その後に行われた地方公共団体の被害想定や、国土庁等が地方公共団体向けに作成した「地震被害 想定支援マニュアル」等はこれらを反映したものとなってきている。また、比較的被災範囲の小さいとされていた直下型地震においても、府県の境界を超える被害が発生したことから、改めて被害想定についても、都道府県ごとに実施するのみな らず、国と地方公共団体が協力して広域で実施し、広域の応急対策計画に反映していく必 要性が中央防災会議の諮問委員会等から指摘され、現在その検討が進められつつある

 

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