阪神・淡路大震災(平成7年1月)
大学の授業再開に違和感
~父の手伝いで被災地支援~
(京都府 30代 男性)
地震当日の朝、大阪の郊外にある大学に電話をしたら、3限目から授業をするというのでテストを受けるために京都から車で向かいました。途中で、ラジオのニュースが、どんどんふくれあがる神戸の被災者の数を刻々と伝えていました。大学に着くと、校舎の窓ガラスがめちゃめちゃに割れていて、休講になりました。
数日たって、授業が再開された日の最初の講義で教授が、「大変な地震でしたね。では授業を始めます」というから、「教授、ちょっと待ってください。たくさん地震で亡くなられた方もいるので、授業を始める前に、みんなで犠牲者に対して黙とうすべきではないでしょうか」と提案したら、「それは個々人がやることです」と言われてガッカリしたのを覚えています。
その後、酒造組合の理事をしていた父親が、被災地の労災病院の人工透析用の水が足りないという話を聞いて、酒造りに使う水を4トンのタンクローリー10台で送るという救援態勢を指揮することになり、せがれの僕がその段取りをまかされたのです。
それまで、頑固一徹な父と対等に話をすることもできなかった僕ですが、あの時は夜中までかかって、父親と2人でああでもない、こうでもないとやったのを覚えています。震災をきっかけに、僕とおやじの距離が少し縮まったような気がしました。