災害を語りつぐ 3

安政南海地震津波(1854)

1854年に大阪を襲った津波では、多くの人が犠牲になりました。津波の後、悲劇を忘れないために建てられた石碑が、今も地域の人たちによって守り続けられています。

江戸時代の終り、1854(安政元)年12月24日、大阪の町中を津波が襲いました。大阪は「水の都」といわれ、町の中を何筋もの川が通り、川にはたくさんの橋が架けられていました。
津波は港の大船を川筋に沿って押し上げ、川の小舟に避難していたたくさんの人々の命を奪いました。これは、四国沖の海底で発生した大規模な地震によって引き起こされたもので、安政南海地震津波と呼ばれています。
この5ヶ月ほど前の7月9日にも、三重県伊賀上野で内陸直下型の地震が発生しました。大阪でもかなりの揺れを感じましたが、この時は多くの人が川舟に避難して無事でした。その経験から、12月24日の地震の時も7月の地震の時と同じように、船に避難しようとしたのです。しかし、12月の地震は津波を伴う地震であったため、多くの人が被害を受けることになってしまいました。
実は約150年前の1707(宝永4)年にも同じように海底地震によって津波が発生、大阪はもちろんのこと、太平洋沿岸に大きな被害を与えています。しかし、江戸時代の終り頃には、大阪の人たちはすっかり昔の災害の経験を忘れていたのです。
大阪を襲った津波の前日には、駿河湾から紀伊半島沖の海底で発生した地震によって、津波が駿河湾、伊勢湾、三重県沿岸の町や村、港を襲い、大きな被害が出ました。こちらは東海地域を襲ったので、安政東海地震津波と呼ばれています。この続けて起きた二つの地震によって静岡県沿岸から九州の太平洋沿岸一帯では、数千人の人々が犠牲になったといわれています。丁度この時には、鎖国していた日本に開国を迫って下田港に停泊していたロシアの軍艦も津波の被害を受けています。

江戸時代に大津波が起こった年
1707年 宝永地震津波
1854年12月 安政東海地震津波
同年12月 安政南海地震津波

犠牲者の供養と災害の体験を伝える石碑

この津波によって大阪で亡くなった人は341人といわれています。当時の人たちは150年前の津波の経験を忘れたために、再びたくさんの人が亡くなったことを悔やみました。そして、後世の人たちが大阪も津波に襲われることを忘れないように、言い伝えを残すことにしました。それには風雨にさらされて刻んだ文字がわからなくなることのない石に文字を刻んで、多くの人が目につくところに建てておくのがよいと考えました。
その碑文の最後には、これからの人たちがこの悲劇を繰り返さないように、そして、石に刻んだ警告の言葉は薄れてしまうから、毎年墨を入れてはっきりとわかるようにしておくことも刻み込まれています。この石碑は現在、大阪市浪速区幸町3町目の大正橋東詰北側の歩道にあります。今も地域の人たちが石に刻まれた教えを守り、墨を入れて文字が消えないように石碑を守っています。

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内閣府政策統括官(防災担当)

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