報告書(1948 福井地震)

災害教訓の継承に関する専門調査会報告書
1948 福井地震

報告書の概要

  • 第1章 福井地震災害の概要

     昭和23年6月28日午後4時13分(当時サマータイムで午後5時13分)、福井平野を震源とするマグニチュード7.1の地震が発生した。地震動は強烈で、震源近傍では住家の全壊率100%の集落が多数出現し、3年前の福井空襲から復興途上にあった福井市でも全壊率は80%を超えるほどで、内陸で発生し都市を直撃した強い活断層地震である。内陸の地震は多いが、福井地震は被害が集中的に発生する都市直下型地震で、住家の全壊34,000棟を超えた。地震の直後から火災が多発し、福井市での2,407棟を含む4,100棟以上が焼失し、被害を拡大させた。人的被害では死者3,769人に及び、震度7(激震)を創設するきっかけとなった強い地震動は、鉄道、道路、河川堤防、橋梁、水道等の土木施設にも多大な被害が発生し、被災地の中央を東西に流下する九頭竜川では全ての橋梁が被災し、被災地への支援は北部を石川県側から、福井市を含む南部を県中南部と滋賀県側から救援する事態であった。さらに、災害としては、戦時下及びGHQ軍政下という社会状況で、昭和20年の福井空襲、昭和23年6月の福井地震、同7月の豪雨水害と、復興途上や被災直後に災害が引き続き発生し被害を拡大させるという複合災害の様相を呈した。

  • 第2章 福井平野と福井地震断層・福井東側地震断層

     福井平野は九頭竜川・日野川・足羽川等が形成した東高西低・南高北低で南北に細長い沈降性の沖積平野である。福井地震では地表地震断層は見いだされなかったが、平野東部を中心に地割れなどの地変が発生し、2本の深部断層の存在が推定され、最大2メートルに及ぶ変位が計測され、活断層研究会は“福井地震断層”と“福井東側地震断層”を地震断層としてその位置を推定した。近年、地震探査、ボーリング・トレンチ・路頭調査から、断層のモデル化と活動度・活動履歴が明らかにされつつある。都市直下型地震対策の検討にあたっては、活断層の存在とその活動度は重要な情報であるが、厚い堆積層に阻まれていることが多い。断層の存在を示唆する平野の微地形を見逃すことなく、加えて地震探査をはじめとする活断層調査の一層の推進が重要である。

  • 第3章 福井地震の特徴

     福井地震は、陸域の浅い活断層地震の典型である。断層は左横ずれ断層と想定されているが、地表に断層を特定できず、震源過程の議論も未だ残っている。しかし、この地震をきっかけに、気象庁は震度7(激震、家屋の倒壊率30%以上、400ガル以上)を加えた。福井地震には前震と思われる記録が残されているが定かでは無い。本震後の余震は多く、1年間に983個観測され、日本で初めて地震計による余震観測が組織的に行われた。福井地震の断層パラメーターと震源過程についての4研究では、走向N10°〜20°Wの左横ずれが卓越した断層として、概ね一致した見解となっている。さらに、近年の微小地震観測データと活断層の分布からの解析では、福井平野周辺では東南東−西北西に圧縮軸をもつ横ずれ断層が卓越していること、したがって南北走向の断層面では、左横ずれ型でやや逆断層成分をもつ断層となると考えられることがわかってきた。

  • 第4章 福井地震の被害の特徴

     近年の常時微動観測によると、福井平野の沖積層は大部分で150m以上、東寄りの最深部では250mの厚さで、常時微動には0.6秒と1.1秒付近に明瞭な卓越周期の存在が明らかになった。木造家屋の全壊率80%以上の範囲と卓越周期1.6秒以上の範囲が、また全壊率20%以上の範囲と卓越周期0.3秒以上の範囲が良好に対応していることが明らかとなった。また重力の観測や弾性波探査から地盤構造が解明されつつあり、福井平野には南北方向に2〜3kmの深さの凹地構造の存在が認められ、その凹地から基盤が浅くなる境界付近に断層が対応していることがわかってきた。戦後の混乱期でもあるが、福井地震の詳細な調査報告書が多く存在しているが、震源近傍の強震記録はない。被害実態からの推定調査では、合震度0.6以上、最大速度120cm/秒という強い地震動の領域が見られ、全壊率100%の地域では合震度0.7程度、最大速度200cm/秒と算定されている。地震被害予測の精度と信頼性を上げるため、多様な地盤探査・研究の一層の推進が不可欠である。
    福井地震で家屋倒壊率が高く火災の影響も大きかったのは、昭和20年7月19日の空襲による被災後の簡素な建物が多数存在したからである、との解釈がある。しかし全壊率100%の農村集落等は空襲を免れていたし、当時の市街地写真やGHQの被災直後の建物調査から、福井地震当時の福井市では一部に仮設的住宅も存在していたが、多くは瓦屋根の恒久住宅に復興していたことは明らかである。その上、強い地震動で壊滅的に倒壊した木造家屋が街路を塞いで消防活動を阻害し、当時の低い消防力と断水による消火用水の不足とも相俟って、県下で4,400棟を超える地震火災となった。

  • 第5章 被災者の記録から読みとく被災実態

     震災から5ヶ月後に震源地近傍の坂井郡金津町(全壊全焼率93%)で、当時地震研の宮村攝三が行った、被災世帯を対象とする郵送アンケート(通信)調査の個票(196票)を入手した。当時は「地震時には狼狽せず戸外へ避難」という指針であったが、やはり全壊・全焼家屋で死者が発生した。発震時が4時13分で、36%が戸外にいた、40%が屋内から戸外へ避難、19%が屋内から逃げ出せず、6%が逃げ無かったことなど、地震時対応行動が明らかとなった。また、被災した家族の安否確認に被災地に出かけて家族を訪ねる途中の市民の見聞や、自ら被災し倒壊家屋に挟まれ、迫る火災から逃れるために自ら片腕を切断した被災者の体験から、被災地や災害医療の状況が生々しく写実された。

  • 第6章 福井地震と社会対応

     震災から1年間の災害対応活動を整理すると、九頭竜川で被災地が二分されたうえに通信途絶や情報不足が救援活動を大きく妨げたこと、緊急医療や物品給付等の活動は2週間〜1ヶ月と比較的短期間であったこと、堤防の沈下にともなう1ヶ月後の水害で道路・橋梁の復旧は遅れ、農業に大被害を与えたこと、資金不足に悩みながらも戦災復興を引き継いで福井市など復興の大略は1年で達成したことが挙げられる。
    戦後GHQの軍政下での地震で、災害救助法が初めて適用された大災害であったが、軍政部への月例報告として災害の総合報告がなされ、被災自治体の対応の遅れも軍政部主導の救援活動で補われた。しかし、治安維持のために全国初の公安条例を制定するなど戦後期の社会情勢を反映した特徴的な取り組みもあった。災害救助法の支援は衣料品・日用品の給付や医療で3/4の予算が費やされたが、長期化する災害の影響(とくに被災者や被災企業の復旧復興への支援)に対して災害救助法では対応できないという問題点は、軍政部からも指摘されていたし、新聞でも主張されていた。
    被災地の医療施設は壊滅的な状況となり、九頭竜川の北部と南部でそれぞれ緊急医療活動が展開された。緊急医療班が派遣され、重傷者は被災地以外に広域搬送がなされたが、戦時下で整えられていた緊急医療体制の取り組みや市民らの空襲時の緊急医療経験などが、医療者・市民・行政ともに、物資不足の中での医療活動を支えた。
    福井地震の強い地震動がもたらした壊滅的な家屋被害は、震度7を創設させるとともに、1950年の建築基準法制定にあたって鉄筋コンクリート造の耐震規定にも大きな影響を与え、長期の2倍とする短期許容応力度の新設や、現行と同じ設計震度0.2の規定が新定された。木造の耐震規定としても、現行法令での適用されている壁量計算の規定が取り入れられ、日本の耐震建築技術を向上させた。耐震規定の大きな改定は、十勝沖地震(1968)、宮城県沖地震(1978)の教訓で1981年に新耐震基準まで待たねばならなかった。

  • 第7章 福井地震からの都市復興の特徴

     市街地火災による被害を受けた6市町(福井市、森田・松岡・丸岡・春江・金津町)では、街路整備と土地区画整理事業による都市復興を行うこととなった。温泉観光都市の芦原町は火災で被災しなかったが街路整備のみの都市復興を実施した。福井市は1945年7月の空襲で市街地全域を焼失し、戦災復興都市計画を事業実施中に震災を被ったため、街路計画等の一部を変更したものの戦災復興都市計画をそのまま震災復興都市計画として、継続委的に事業遂行した「事前復興」の取り組みで、それが「奇跡的」と評される福井市の震災復興である。街路計画・土地区画整理事業に加え、下水道整備計画、公園・緑地計画、墓園計画などで、空襲と震災を被った福井市の市街地は一新された。
    建物再建にあたっては、仮住まいの確保に釘・材木の提供やがれき整理への奨励金等の自力復興を誘導した。また、耐震防火建築技術講習会の開催にもかかわらず、被災住宅の再建では原則許可不要の取扱や簡単な届け出など、再建手続きの簡素化は迅速な恒久住宅再建をもたらしたが、一方では耐震性に乏しい旧態依然の建物再建となった。
    福井市の復興過程について行政担当者の回想から、GHQの進駐に際し戦前の都市計画資料を処分した中で、密かに個人が保管した資料が戦災復興計画の立案を迅速にし、戦災復興の土地区画整理の仮換地指定が震災の2日前に完了したなど、復興の事前準備の必要性と、熊谷市長の強いリーダーシップの重要性が指摘された。

  • 第8章 福井地震と豪雨災害

     堤防沈下という福井地震の河川被害は、震災1ヶ月後の九頭竜川豪雨水害と、56年後の2004年足羽川豪雨災害を引き起こす原因の一つである。前者は、福井地震からの道路・橋梁の復旧を遅らせ、農村・農業に大きな被害をもたらし、地震と水害の複合災害となった。さらに山間地での地震動が斜面崩壊等の被害を拡大した可能性もある。後者は、沈下堤防の盛土による修復部分が削り取られ、そこから大規模破堤となった水害であった。前者の浸水地域は、現在は全域的に市街化し、再度同じ状況を来すと飛躍的な大被害となろう。複合災害への備えの重要性をつたえている。

  • 第9章 福井地震から学ぶ教訓

     福井地震から学ぶ今日への災害教訓として、以下の10点を取りまとめた。

    • (1)地震はどこにでも発生する、と考えなければならない。
    • (2)地震の予知はまだ出来ず、地震は不意打ちに発生するが、過去の地震災害に学び、その教訓を国民が共有しておくことが重要である。
    • (3)地震探査や微地形などを通して、地域や自分の“災害環境”を知ることが、防災対策の実践を促す。
    • (4)建造物の耐震改修の推進は、地震防災の基本である。
    • (5)木造密集市街地が存在する日本の都市では、地震火災の防御は重要な課題である。
    • (6)復興対策も事前に準備しておく「事前復興」の取り組みが重要である。
    • (7)「自助復興」への支援対策が、被災者の復興モチベーションを作り出す。
    • (8)復興にあたっては強いリーダーシップが重要である。
    • (9)地震と台風などの複合災害に対する取り組みとして、「対策の一体化」が必要である。
    • (10)断層の存在や地形・地盤など、地域の潜在的脆弱性(ハザード)に配慮した都市整備が、災害に強い都市づくりには不可欠である。

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内閣府政策統括官(防災担当)

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