報告書(1923 関東大震災第2編)

中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会


災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成21年3月
1923 関東大震災【第2編】

報告書の概要

はじめに

 1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災は、首都圏に死者10万人、住居焼失者200万人を超える日本の地震災害史上最大の被害をもたらした。地震によって発生した火災が被害を拡大し、広い範囲での交通機関、上水道、電力、通信、橋梁など社会資本の機能喪失が人々の生活を脅かし、流言による殺傷事件も生じるなど、今なお関東大震災以外に参照すべき事例がない事象も多く、災害教訓として重要である。本編では、震災発生直後の人々の対応を扱う。

  • 第1章 消防と医療

     当時の消防組織は断水や同時多発火災を想定していなかったため、一部で延焼を阻止したものの、火災の拡大を防ぎきれなかった。火災の延焼の中で避難した人々の大半、約100万人は上野公園、皇居前など焼失地域外縁部の空地に避難した。避難場所となった焼失地域内の空地では、浅草公園、横浜公園のように周囲のへの延焼が一方向ごと逐次で、池など容易に利用できる水や延焼を遮る樹木がある場合にのみ多くの生存者があった。医療機関が焼失した江東地区や横浜では医療救護が深刻な課題で、3日以降、地方からの来援を得て本格化し、徐々に組織化され、15日頃に伝染病予防を中心とする体制に転換した。鉄道は避難と救援の手段として復旧が急がれ、4日に東京、6日に横浜と外部との連絡が回復したが混雑は激しかった。中央線、東海道線の全通は10月下旬となり、これを補うべく艦船による旅客輸送も行われた。電灯は東京で4日、横浜では8日以後に逐次復旧した。

    第2章 国の対応

     当時、前首相加藤友三郎が死去し、山本権兵衛が組閣中であった。政府首脳が事態の深刻さを認識したのは1日の夜で、2日朝の閣議で臨時震災救護事務局の設置、戒厳令の適用、非常徴発令の発令を決定したが、対応が本格化するのは2日夜の山本内閣の成立を経た3日月曜の朝からとなった。5日に食糧配給体制を決定し、7日に支払猶予令を出して当面の対応を固め、19日の帝都復興審議会官制公布で復興の段階に入った。救護と治安維持の第一の担い手であった警察は奮闘したが、庁舎の焼失、電話の途絶、そして何より人手不足のため力及ばず被災者の批判を浴びることが多かった。当時は機動隊がなく、3日以降に他府県からの応援を得るまで人的余裕がなかったため、警視総監は早くから戒厳令を適用して軍を対応の中心とすることを求めた。軍は各部隊の判断で発災直後から救護活動を開始し、2日には周辺からの招致部隊も含め東京の被災地に部隊を展開したが、十分な情報を集め伝達することができなかったため、一部で混乱を生じた。3日以降は地方部隊を招致し、戒厳司令部の統制の下で、治安維持のほか、救護や応急復旧に活躍して存在感を示した。海軍も、横須賀方面での救護のほか、艦船を利用した輸送を中心に貢献した。

    第3章 地域の対応

     被災地の府県、市町村は1日夜から食料の確保と炊き出し、避難所の整備などを進めた。当初は区や町村ごとの対応の格差が大きく、また量的に被災者全体に行き渡る対応はできなかったので、住民のボランティア的な活動が果たした役割が大きかった。東京では6日頃から救援物資の配給が組織化され、陸軍が郡区役所まで運搬した物資を郡区役所が配給したが、調査、運搬、配給の担い手は町内会で、従来設けられていなかった町でも急遽結成された。東京市は2日から遺体を収容、4日に道路橋梁の復旧に着手し、5日から給水をはじめ、7日頃には山手の非焼失地区で水道を復旧し、また屎尿や塵芥の処理も開始した。これらの作業では地方から来た青年団、在郷軍人会などの応援団体が果たした役割も大きかった。横浜では在泊した汽船が救護で重要な役割を果たし、5日以降外国からの救援物資も到着したが、被害状況がより厳しく、遺体収容が6日、給水や道路橋梁復旧は8日からとなった。千葉県が安房郡の深刻な被害を把握したのは2日の午後以降で、食料を配給した安房郡役所では食料が底をつき、9日以降汽船での緊急輸送が行われた。この他の地方でも郡町村が救護の主体となったが、実際には住民の助け合いによるところが大きく、津波や土砂災害による被害を受けた地域や深刻な被害を受けた大規模工場では十分な対応ができず、軍隊など外部からの救援を待って対応が本格化した。

    第4章 混乱による被害の拡大

     関東大震災時には横浜などで略奪事件が生じたほか、朝鮮人が武装蜂起し、あるいは放火するといった流言を背景に、住民の自警団や軍隊、警察の一部による殺傷事件が生じた。流言は地震前の新聞報道をはじめとする住民の予備知識や断片的に得られる情報を背景に、流言現象に一般的に見られる「意味づけの暴走」として生じた。3日までは軍隊や警察も流言に巻き込まれ、また増幅した。

    第5章 関東大震災の応急対応における教訓

     関東大震災は当時の人々の想定を超えた大災害であったうえ、技術進歩への過信から災害への備えが軽視されていたため、被害が拡大した。最初の3日間ほどは被害の大きさと通信の途絶からだれも災害の全貌が把握できず、救護の不手際や流言による混乱が生じた。救護に利用できる施設が偏在し、一部は焼失したことも救護の遅れをもたらし、実際の救護活動では炊き出し、避難場所提供、労力奉仕などボランティア的な人々の果たした役割が大きかった。国内外、古今の災害を参照して、建造物・施設の耐震防火、応急対応のための物質面の備えを進め、災害に対応できる制度組織を整えるほか、一般市民の大規模災害に際して起こりうる事態への理解を深めておく必要がある。

    報告書(PDF)

    ※報告書の刊行日(平成21年3月)が誤っていましたので、訂正いたしました(令和5年6月)。

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