阪神・淡路大震災(平成7年1月)
出向中で行き場なし
~自分で職場探してイザ出動~
(神戸市 50代 男性 市職員)
夢うつつの中で地震が揺れ出し、すごい揺れだったのでタンスが倒れないように両手で支えながら、揺れがおさまるのを待ちました。ドアを開けて、隣に寝ている子どもの無事を確認したところで、テレビをつけました。でも、映ったのは瞬間で、すぐに停電になってしまったので、全国放送のラジオをずっと聞いていましたが、何が起きているのか、全然はっきりしないのです。
うちは郊外でしたので、「ここでこうやから、もし三宮のほうに揺れのもとがあったらえらいことになっているな」と思い、みんなが出勤する時間に職場に電話をしました。当時僕は大阪にある外郭団体に出向していましたから、直感的に、「僕を必要としているところに行かなければ」と思ったんです。
もともとは港湾部局出身なので、そこに電話をしてみるとかなり人が出てきていました。「それなら」と、出向元になっている企画部局に電話したら人がほとんど出てきていなかったので、「ここやったら僕の仕事はあるかな」と思って、そこを手伝おうと出て行ったんです。
企画部局で全体を見て仕事をしたことが、人生の分かれ道だったのかなと思います。そうでなければ、神戸の防災・減災に深く関わっている今の自分はなかったんじゃないかなと。