不屈の大地 Build Back Betterの軌跡



平成7年(1995年)阪神・淡路大震災からの復興

 平成7年(1995年)1月17日に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)では、被害が兵庫県だけでなく、近隣の府県も含めた広範囲に及びました。

 大阪湾に注ぐ淀川では、下流域の堤防に被害が集中しました。中でも左岸下流域の酉島とりしま(大阪市此花区)では、基礎地盤の液状化等により堤防が2キロメートルに渡り最大3メートル沈下する事態に見舞われました。沈下後の堤防は、堤内地の地盤高と同程度の高さになってしまい、かろうじて海水面よりも高かったことから、浸水することこそなかったものの、一つ間違えば、さらなる惨事に見舞われた可能性もありました。

 被害を受けて、国土交通省では、液状化対策として地盤改良を施したうえで、洪水にも強い高規格堤防(スーパー堤防)構造として復旧させることとしました。

 スーパー堤防は、堤防の市街地側にも盛土をすることで、幅を広げて堤内地側を緩やかな傾斜にした台地状の構造です。このため簡単に破堤することがなく、元々の堤防よりも、都市を水害から守ることができます。

 現在スーパー堤防上には地上40階のタワー棟を含むUR都市機構等の集合住宅が整備されており、公園と一体となった水辺空間を実現しています。


震災で沈下・崩壊した堤防(国土交通省近畿地方整備局淀川河川事務所提供)

震災で沈下・崩壊した堤防(国土交通省近畿地方整備局淀川河川事務所提供)

スーパー堤防が整備された現在の酉島(令和7年(2025年)1月撮影)

スーパー堤防が整備された現在の酉島(令和7年(2025年)1月撮影)

堤内地側の緩やかな傾斜(令和7年(2025年)1月撮影)

堤内地側の緩やかな傾斜(令和7年(2025年)1月撮影)


 酉島のスーパー堤防からほど近い場所に伝法漁港があります。ここはかつての伝法川(旧中津川)の河口に当たる部分で、江戸中期までは、大阪の港として栄えていました。貞享元年(1684年)に安治川が開削されると船の往来が減り、明治43年(1910年)に、現在の淀川が開削され、そこに流入する形となりました。さらに高潮の侵入路になることから、昭和26年(1951年)に埋め立てが始まり、現在の漁港が残りました。昭和39年(1964年)には伝法水門が設けられ、淀川との間を隔てています。
伝法漁港(令和7年(2025年)1月撮影)

伝法漁港(令和7年(2025年)1月撮影)


表紙写真

 淀川左岸下流の酉島に整備されたスーパー堤防。阪神・淡路大震災での液状化による沈下を経験し、洪水にも強い堤防として生まれ変わるとともに、水辺の眺望を最大限に活かしたウォーターフロント型の集合住宅が整備されています(令和7年(2025年)1月撮影)。

表紙写真

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