記者の眼

過酷で長い災害の痛み

災害の取材にかかわり始めて15年になる。きっかけは1995年の阪神・淡路大震災だった。1月17日午前5時46分、神戸市中央区の一人住まいのマンションで、私は震度7の揺れになすすべもなかった。
幸い建物は無事だった。窓の外に見える街はただ静かで、一切の音と光が消えていた。時折、「ぐゎん、ぐゎん」という感じの大きな余震が足元を襲った。あらゆるものが散乱した暗い部屋でひたすら預金通帳を探した。「通帳さえあれば何とか生きていける」という、何とも浅はかな思いつきだった。
夜明けの街に出たのは取材のためというより、水と明かりと人の温もりを求めてのことだった。波打つ道を歩き、倒れたビルを見ているのに、同じ瞬間、がれきの下で何千もの人が息絶えていこうとしていることを私は想像できなかった。災害の現実をまったく理解していない、無知な人間だった。
あれから15年。その間にも多くの命が災害で奪われた。阪神・淡路大震災で大災害の過酷な現実を突きつけられても、この国は災害で人が死ぬことの重みを真剣に受け止めていないように思える。なぜ過密な都市に超高層ビルを造り続けるのか。なぜ今も耐震性の不十分な学校があるのか。国の根幹を揺るがす災害に無関心な人が多いのはなぜなのか。
災害の影響は一時的ではない。多くの被災者が身体的、精神的な傷を負い、経済的にも疲弊していく。住まいの喪失と避難生活で地域のつながりは破壊される。多数の人命を失った地域社会は、長くぬぐえない痛みを抱えながら復興の道のりを歩まねばならない。
阪神・淡路の仮設住宅で、だれにも看取られずに亡くなった「孤独死」は233人。被災者向けの復興公営住宅では、昨年までの10年間で630人にのぼる。被災地では、6434人という公式の犠牲者数に表れない死が今なお続いている。
毎年1月17日、阪神・淡路の被災地は深い祈りに包まれる。ぜひ多くの人に訪れてほしいと思う。私たちにとっては、ともに生きた人々の命日であり、何年、何十年と続く災害の影響を伝える日でもある。多くの人を死なせた私たちの愚かさから、何かを学び取り、それぞれの地域で生かしてもらえればありがたい。

森野 周さん

神戸新聞東京支社編集部
磯辺 康子

いそべ・やすこ
1989 年入社。社会部、生活部などを経て2008年12月から東京支社勤務。1995年の阪神・淡路大震災以降、災害報道を担当。

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