過去の災害に学ぶ25

1858年4月9日飛越地震 その2

 立山連峰の一部が崩壊し、川をせき止めて多数の天然ダムを生じ、さらなる地震と2カ月後のダムの決壊で大きな被害をもたらしました。
 これ以降、豪雨のたびに水害や土砂災害が頻発します。
 1906年、富山県は砂防工事に着手し、常願寺川上流域は日本の砂防事業発祥の地になりました。

文:伊藤和明(NPO法人防災情報機構会長)

次の地震で土石流が下流の村々を襲い、二カ月後ダム決壊、土石流と大洪水が生じた。

 激震によって、立山連峰の大鳶・小鳶が大崩壊を起こし、川をせき止めて多数の天然ダムを生じた。
 そこへ、地震から2週間を経た4月23日、信濃大町付近を震源とするM5.7の地震が発生し、その衝撃によって、真川のせき止め部が決壊、大量の土砂や流木をまじえた土石流が下流の村々を襲った。
 さらに、地震から2カ月後の4月26日、湯川筋の天然ダムが決壊して、大規模な土石流と洪水流が発生、常願寺川の扇状地に氾濫して、堤防を破壊したうえ、大洪水となって富山平野を洗い、多数の民家を押し流した。この2回目の洪水は、1回目よりも規模が大きく、水位は2mほど高かったという。
 2回にわたる土石流と洪水によって、流失・全壊した家屋は1600戸あまり、死者140人といわれる。
 飛越地震は、おもに常願寺川と神通川の流域を中心に、震害と土砂災害をもたらしたのだが、そのなかで、災害直後の加賀藩や幕府直轄領だった飛騨国の初動対応には、評価すべき点が多い。
 加賀藩では、常願寺川上流部での異変に関する情報が伝えられると、村役人の判断で、村民の避難行動を促す緊急情報を発して、1回目の天然ダム決壊による災害の軽減に役立ったという。
 飛騨国では、深い山中での震害だったにもかかわらず、御役所が、地震の2日後には災害の概要を把握し、被災地への調査団の派遣や食料などの支援を決定している。
 山地の各所で土砂崩れが起きたため、飛騨と越中を結ぶ3つの街道は寸断されてしまった。これらの街道は、両国を結ぶ物流の動脈となっており、とくに耕地面積の少ない飛騨は、食料のかなりの部分を越中からの輸送に頼っていた。そのため、飛騨国では、迂回路を開く一方、精力的に3つの街道の復旧工事にあたった。険しい山地での工事は難航をきわめ、4カ月後にほぼ完了したが、その後の大雨で再び土砂崩れなどに見舞われたため、最終的な復旧は、秋にずれこんだという。
 飛越地震による大規模土砂災害を契機に、常願寺川はすっかり暴れ川に変身してしまった。地震以前には、扇状地の扇頂にあたる上滝まで、河口から舟運があるなど安定した河川だったが、地震後は、豪雨のたびに水害や土砂災害が頻発するようになったのである。しかも、災害は年を追うごとに激化して、明治時代の1871年から1912年までの42年間に、40回の洪水が発生している。
 こうした災害の繰り返しから、上流部で土砂を抑えないかぎり、常願寺川の治水は成り立たないことが認識されるに至った。そこで1906年、富山県による砂防工事が着手され、1926年には、国の直轄事業として引き継がれた。こうして、常願寺川上流域は、日本の砂防事業発祥の地となったのである。
 しかし、これによって常願寺川水系の災害が沈静化したわけではなく、昭和になってからも、しばしば土石流や洪水による災害に見舞われてきた。現在、立山カルデラ内には、約2 億㎡の不安定な土砂が残留しており、「鳶泥」とも呼ばれている。もし2億㎡の土砂で富山平野を覆うと、平均2mの厚さで堆積することになるという。したがって、将来の災害から富山平野を守るために、砂防技術を駆使した戦いが、果てしなく続けられているのである。
 1858年飛越地震は、山地が激震に見舞われたときの広範囲にわたる災害の脅威を見せつけるものであった。しかもその後遺症は、現在まで延々と続いているということができよう。
 近年、2004年新潟県中越地震や、2008年岩手・宮城内陸地震など、内陸の活断層の活動による地震が発生し、そのたびに、無数の地すべりや斜面崩壊を引き起こしている。このように、深刻な山地災害を招く内陸直下地震は、将来も必ず発生する。
 いま飛越地震の災害像を振り返るなかで、そこから得られた教訓を、自然環境も社会環境も変貌を遂げ脆弱化した現代社会に置きかえつつ、将来の地震防災に活かすことが、まさに防災面における「温故知新」なのではないだろうか。
 前回と今回の内容は中央防災会議の災害教訓の継承に関する専門調査会報告書によるところが大きい。報告書は中央防災会議のホームページhttps://www.bousai.go.jp//kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/index.html で見ることができる。

大場の大転石(撮影:菊川茂氏)

大地震非常変損之図(下流図)『加藤文書』(羽咋市歴史民俗資料館蔵)

白岩砂防堰堤

写真出典:内務省社会局「大正震災志」

飛越大地震PROFILE
プレート断層の活動による直下型地震
マグニチュード:7.3 〜7.6(未明)/死者:約410 人/内訳 :平野約20 人、山間約250人/溺死約140 人/全半壊家屋:約2,700 戸

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