特集 防災教育

明るい兆し?

防災教育をめぐる環境の変化

【工夫をこらした防災教育の出現】
 防災教育といえば、これまで、画一的な避難訓練が中心であったが、近年、さまざまに趣向を凝らしたものが行われている。
 まず、防災イベントでは、参加者に楽しみながら防災知識を身につけてもらう工夫として、DIG(Disaster Imagination Game)、HUG(Hinanzyo Unei Game)、クロスロード(災害対応カードゲーム教材)、ぼうさいダック、ぼうさい駅伝、ぼうさい塾などが開発され、多くの市民が体験している。また、AED体験、炊き出し体験、防災クイズ大会、消火器訓練、起震車体験、まちの防災マップ作り、ワークショップなどが、多くの参加者を得て行われている。実際にそれらに参加した者とそうでない者では、当然ながらその後の認識の度合いに大きな差が出る。
 次に、コンテンツ(教材)として、各種DVD(『幸せ運ぼう』など)、振動教材(ぶるる)、防災かるた、防災・防犯わらべ唄、防災の寸劇、震災体験集(一日前プロジェクト)などが提案されている。このうち「ぶるる」は、体験型の耐震実験模型の総称で、なかには簡易な紙のものもあり、建物の揺れを再現し、耐震性のある建物作りの基礎を教えることができるため、特に子どもたちに好評を博した。
 さらに、防災教育のカリキュラムとしては、総合的な学習の時間を通しての学習や、既存の教科を組み合わせたカリキュラムの提案なども示されているが、特にユニークなものとして和歌山県田辺市の新庄中学校での例がある。国語では地震の紙芝居の作成、社会では地震史と津波用立体地図の作成、数学では津波到達時間の計算、理科では地震メカニズムの学習、美術では避難所の看板作成、保健体育では応急手当の学習、技術家庭では意識啓発パンフレットの作成と防災対策の実践、英語では世界の地震の学習など、すべての教科を使い総合的に防災教育を実施している。このような多様な形での取組により、従前と異なり格段に効果的な防災教育となっている。

【学習指導要領の改訂〜防災関係記述の増加】
 学校現場の教師にきわめて大きな影響を及ぼす「学習指導要領」について、政府は平成20年3月、平成10年以来の改訂の内容を告示した。今回は「生きる力」を育むという学習指導要領の理念のより一層の実現のため、具体的な手立てを確立する観点からの見直しがされている(平成23年に小学校、平成24年に中学校で完全実施)。
 このなかで、防災教育にかかわる記述についても、いくつかの内容が追加・修正され、強化が図られた。
 中学校の保健体育では、これまでの記述に加えて「自然災害による傷害は、災害発生時だけでなく、二次災害によっても生じること。また、自然災害による傷害の多くは、災害に備えておくこと、安全に避難することによって防止できること」が新たに追加され、より「備え」の重要性を強調する記述となった。
 また、小学校の社会科では、3、4年生で「関係機関は地域の人々と協力して、災害や事故の防止に努めていること」という一文が入るとともに、5年生では、環境の保全という目標に加えて、「自然災害の防止の重要性」も新たに加えられることになった。

 以上のように、学習指導要領の上では、防災教育の体制の「充実が進められた」ことは事実であり、まずは大きく前進であると評価できる。しかしながら、これまでの避難訓練を中心とした学校現場での取組をみるとき、実際に真に「防災」に有用な教育が行われるかどうか、懸念なしとしない。まさにそれぞれの教師の経験、意識、熱意によって大きく変わってくるものと考えられる。

親と子の建築講座(写真提供:福和伸夫)

ビジュアル教材「幸せ運ぼう」

愛知県教育委員会による高校生防災セミナーでのKJ 法のワークショップ(写真提供:福和伸夫)

親と子の建築講座で教材「ぶるる」の実験(写真提供:福和伸夫)

「稲むらの火」
津波の教訓を伝える物語

稲むらの火

 日本の防災教育のなかで、注目されるのは、「稲むらの火」である。これは、1854 年の安政南海地震津波の際に、和歌山県広川町で濱口儀兵衛(梧陵)が人々を率いて高台に逃げたというエピソードを、『怪談』で有名な作家、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が記述し、中学校教師だった中井常蔵(明治40 〜平成6 年)が翻訳・再話したもので、その後文部省の国定国語教科書に採用され、昭和12年から22年までの間、「稲むらの火」として掲載された。
 物語の概要は、次のようなものである。高台に住んでいた主人公の五兵衛は、長くゆったりとした揺れと、うなるような地鳴りを感じ、外に出て村を見下ろす。しかし村では、豊年を祝う宵祭りの支度に心をとられ、地震にはまったく気がついていない。
 一方、海を見ると、波が沖へ引き、海岸には砂原や黒い岩底が現れる。五兵衛はすぐに「大変だ。津波がやってくる。このままだと村人が皆、飲み込まれてしまう」と感じ、松明を持ってきて、刈り取ったばかりのたくさんの稲束に火をつけた。
 この火を見た村人は、その火を消そうと、皆かけ上がってきた。彼等はすぐ火を消そうとするが、五兵衛は大声で「そのままにしておけ!」と叫ぶ。そのうち、はるか沖から非常に大きな津波がやってきて、荒れ狂うように、村をひと飲みにしてしまった。村人はようやく、この火によって助かったことに気づく。

防災に貢献した歴史的人物

 この話は、1854 年(安政元年)の安政南海地震津波のときに、和歌山県広川町で起きた史実に基づいている。モデルとなった濱口儀兵衛は、実際は30代の商人で家は町中にあり、燃やしたのは脱穀を終えた藁の山だった。火をつけたのも津波が来てからで、闇の中で村人に安全な避難路を示すためだった。しかし、儀兵衛は津波の後も巨額の私財を投じ、海岸に高さ約5m、長さ約600mの防潮堤(広村堤防)を築造し、それによって、約90年後の昭和19年〜21年の東南海地震・南海地震の津波では、村の居住地区の大部分が守られた。
 その後、この『稲むらの日』は、2004 年のスマトラ沖地震・インド洋津波災害のときに再び注目され、日本の支援で、アジア八カ国など、海外でも翻訳されて広まっている。なお現在は、津波のときには、必ずしも潮が引くとは限らないという注釈がついている。
 平成19 年、和歌山県広川町では、この物語を記念した「稲むらの火の館」( 濱口梧陵記念館・津波防災教育センター)が建てられた。

インド洋津波によりインドネシアで家の上に乗った船(写真提供:(財)日本国際協力システム)

ベンガル語版『稲むらの火』

インドネシア語版『稲むらの火』

和歌山県有田郡広川町の「稲むらの火の館」

 

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