5-3 東日本大震災を契機とした被災者支援体制の充実等
(東日本大震災の概要)
平成23年(2011年)3月11日、東日本大震災が発生した。同震災は、三陸沖を震源とするモーメントマグニチュード9.0の海溝型地震(東北地方太平洋沖地震)によってもたらされた。地震の規模は国内観測史上最大であり、宮城県北部の栗原市で最大震度7が観測されたほか、宮城県、福島県、茨城県及び栃木県では震度6強を観測し、北海道から九州地方の広範囲で揺れが観測された。また、この地震により、岩手県、宮城県及び福島県を中心とした太平洋沿岸部を巨大な津波が襲った。各地を襲った津波の高さは、福島県相馬市では9.3m以上、宮城県石巻市で8.6m以上、岩手県宮古市で8.5m 以上、大船渡市で8.0m以上であった。
この地震や津波により、13都道県で死者・行方不明者が22,318名(災害関連死を含む。)、9都県で12万2,039棟(消防庁情報、令和5年3月9日現在)の住宅が全壊となり、発災当初の避難者は最大で約47万人に及んだ。また、東京電力福島第一原子力発電所の事故による放射性物質の放出に伴い、同施設周辺の多くの住民が避難を余儀なくされるとともに、あらゆる産業が大きな被害を受けるなど、未曾有の複合災害となった。
(被災者支援体制の充実)
東日本大震災では、被災市町村における通信途絶、職員や庁舎の被災により、被災者に必要な物資等の情報把握が困難となった。また、避難所によって運営に大きな差が生じ、被災者ニーズの変化に十分対応できなかった。女性、高齢者、障害者等への配慮の必要性についても指摘された。
これらを踏まえて、平成24年(2012年)及び平成25年(2013年)の「災害対策基本法」の改正では、国等が地方公共団体の要請を待たずに自らの判断で物資等を供給できるプッシュ型支援に係る規定、被災者が一定期間滞在する避難所と緊急時の一時的な避難場所をあらかじめ指定する規定や、避難行動要支援者に関する規定等が設けられた。また、避難所運営に関する取組指針やガイドラインの制定、男女共同参画の視点からの取組指針の制定等も行われた。
第2節で見たように、関東大震災当時は、あらかじめ避難所を指定しておく仕組みはなく、学校、官公庁、社寺境内等が開放され、避難者を収容した。また、住民同士の助け合いによって、食料などの物資が被災者に供給された。東日本大震災を経て、指定避難所が法定化されるとともに、プッシュ型支援を含めた行政主導による物資支援の仕組みが構築された。一方で、将来の大規模災害を見据えると、関東大震災の当時と同様、指定避難所以外も含めた避難生活環境の確保や、住民同士の助け合いなど自助・共助による被災者支援も引き続き重要である。
(その他の災害対策の充実・強化)
東日本大震災の発生時には、「想定外」という言葉がよく使われたが、過去数百年間の地震・津波を再現することを基本とする従来の被害想定の在り方に再検討が求められた。また、ハード対策のみでは災害は防げないとの考えの下、ハード・ソフトの様々な対策を組み合わせることで被害を最小化する「減災」の考え方の徹底が求められることとなった。
これを踏まえて、南海トラフ地震、首都直下地震及び日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震に関する被害想定の見直し等が順次進められるとともに、「減災」の考え方など災害対策の基本理念を災害対策基本法に明記し、その徹底を図っている。
関東大震災当時は、地震の科学的な発生メカニズムに関する知見は乏しく、地震の震源が地下で動く断層であることが確信されたのは、昭和40年(1965年)頃であるとされている。その後も地震学の研究や観測が進むにつれて、最新の科学的知見に基づく地震モデルが考案され、現在に至っている。引き続き、最新の知見に基づく科学的なリスクの評価が求められるとともに、想定以上の災害が発生する可能性も常に念頭に置きながら災害対応に当たることが求められる。
なお、以上の内容を含めた、我が国における戦後の防災制度・体制の歩みの概要については、附属資料5も併せて参照されたい。