特集 東日本大震災から学ぶ 〜いかに生き延びたか〜

8月20日・21日に開催された「防災フェア2011」では、岩手県釜石市立釜石東中学校の先生、生徒、岩手県陸前高田市米崎小学校避難所運営役員を務めた佐藤一男さん、そして田村圭子新潟大学危機管理室教授による東日本大震災の体験報告会が開かれました。
「より多くの人たちに、震災から学びえたことを伝えたい」。そのような思いで語られた貴重なお話です。みなさんも災害への備えについて、家族や友人ともう一度話し合ってみませんか。

貴重な体験を聞こうと多くの人たちが集まった体験報告会会場( 左)、報告会で発表中の釜石東中学校のみなさん(右)
(橋詰芳房 撮影)

釜石東中学校のみなさんの報告

まずは、岩手県釜石市立釜石東中学校のみなさんによる貴重な体験談をご紹介します。
東日本大震災の大津波が東北地方沿岸部に甚大な被害を及ぼしたなか、岩手県釜石市内の児童・生徒の多くが無事でした。この事実は『釜石の奇跡』と呼ばれ、大きな反響を呼んでいます。なかでも、海からわずか500m足らずの近距離に位置しているにもかかわらず、釜石市立釜石東中学校と鵜住居(うのすまい)小学校の児童・生徒、約570名は、地震発生と同時に全員が迅速に避難し、押し寄せる津波から生き延びることができました。積み重ねられてきた防災教育が実を結び、震災発生時に学校にいた児童・生徒全員の命を大津波から守ったのです。
一体これまでにどのような防災教育が行われ、震災当時にはどのような行動が取られたのでしょうか。報告会で貴重なお話をしてくれたのは、釜石東中学校の生徒指導部長の齋藤真先生、2年生の紺野堅太くん・柏崎楓さん、3年生の金野葵さん・川崎杏樹さんの5名のみなさんです。その報告は、防災教育に対する示唆に富んだものでした。

防災教育の大前提1
常に真剣に取り組む

「防災訓練に対して、いかに生徒たちに真剣に取り組ませるか。それが指導する際に最も大事にするポイントの一つです」
齋藤先生はそう強調します。こうした訓練では生徒たちが遊び半分になってしまうこともありますが、釜石東中学校の場合はまさに真剣そのものだったと言えます。それには、釜石市が過去に明治三陸地震大津波(1896年)、昭和三陸地震大津波(1933年)、チリ地震津波(1960年)と、三度も大津波に襲われているという歴史的背景も関連しています。
三陸地方には『いのちてんでんこ』という言い伝えがあります。「津波が来たら、家族がてんでバラバラでもとにかく逃げろ」という教訓です。根浜(ねばま)海岸のすぐ近くにある釜石東中学校の生徒にとって、地震と津波に対する防災訓練は、いつ起きてもおかしくない現実に向けた、真剣にならざるを得ない大切なものだったのです。

防災教育の大前提2
自分で判断・行動できる力を育む

「例えば避難訓練の際に、ある生徒を保健室に待機させておき、それを生徒たちに知らせないで開始したりします。そうすると子供たちは「○○君がいない」と焦ります。その時に彼らがどう動くかを、私たち教師は見るわけです」(齋藤先生)
その行動に反省点があれば、先生方はすぐにアドバイスを送ります。そうしたイレギュラーな要素を適度に盛り込むなど、釜石東中学校では訓練に際して先生の指示に従うだけでなく、生徒自らが状況に応じて臨機応変に判断し、行動できる力を育んできました。もしも登下校時に地震が起きた際は、生徒たち自身がどこに避難すべきかを判断しなければなりません。これは非常に重要な要素と言えます。
この二つの大前提の他にも、釜石東中学校では防災教育を学校内だけではなく、地域全体のものとして捉えて訓練を重ねてきました。その具体的な内容を、これから順を追ってご紹介します。

3月11日 東日本大震災の震度分布図(気象庁 提供)

隣接する鵜住居小学校との合同避難訓練
(釜石東中学校 提供)

防災教育の狙い
命を守る3つの柱

釜石東中学校の防災教育の狙いは、以下の3点に集約されます。
1.自分の命は自分で守る
2.助けられる人から助ける人へ
3.防災文化の継承
1では前述したように、災害時に自分で判断し、行動できることを目指します。2では、例えば、小学生の誘導や災害後のボランティア活動など、中学生にできる活動を学びます。そして3では、地域に伝わる津波の恐ろしさと命を守る知恵を学び、次の世代へと引き継いでいけるように生徒を導きます。
この狙いに基づいて09年に発足したのが『EAST‐レスキュー』という全校防災学習です。これはEast東中生、Assist=手助け、Study=学習する、Tsunami=津波から取った言葉で、10年度には5段階の防災教育を積み重ねました。

EAST‐レスキュー活動 第1弾
小中合同避難訓練

道路を挟んで真向いに隣接する鵜住居小学校との合同避難訓練を6月14日に実施。安全を確保したうえで小学生を手助けするよう訓練しました。具合の悪い子供や怪我人がいることも想定し、リヤカー、おんぶ、肩貸しなども練習しています。
「リヤカーはかなり有効だと思います。被災直後、誰もが走って逃げられる状態にあるとは限りません。リヤカーには4〜5人乗せることができるので、災害時に非常に役立ちます」(齋藤先生)

EAST‐レスキュー活動 第2弾
宮古工業高校から学ぶ

09年度の『ぼうさい甲子園』の高校の部で「ぼうさい大賞」に輝いた岩手県宮古市の県立宮古工業高校の皆さんを7月5日に学校に招き、自作の津波浸水模型を使って津波がどう押し寄せるかを実演してもらいました。
「津波の怖さをあらためて知りました。そして、どう行動するかを考え、実行しなければならないと強く思いました」(紺野くん)

(気象庁 提供)

宮古工業高校による模型を使った津波実演
(釜石東中学校 提供)

EAST‐レスキュー活動 第3弾
安否札1,000枚配布

安否札とは09年に生徒自ら考案したもので、災害時に避難したという札を玄関先に掲げることで、消防団や捜索隊員が家に入って確認しなくても状況がわかるという札です。視認性の高いA4サイズのオレンジ色で、防水のためにラミネート加工したものを使用します。7月24日に地域に1,000枚配布しました。
配布にあたっては、地域の地区長の全面的協力を得て、地区長の呼びかけで集まってくれた地域の方々と一緒に生徒が各戸を回りました。「単に渡して受け取ってもらうだけではない、本当の交流も数多く生まれました」(柏崎さん)。齋藤先生はこうも付け加えました。
「おじいちゃんやおばあちゃんは、孫みたいな子たちが家に来て一生懸命に説明をしてくれることを、本当にありがたいと思われます。だから、安否札を大事にしてくれるんです。実際に震災後に安否札を掲げていた家が、いくつかあったんですよ」。
安否札は学校と地域を結びつける重要な役割を果たすと同時に、被災後においても地域住民に役立つことができたのです。

地域の皆さんに使い方を説明しながら安否札を手渡し
(釜石東中学校 提供)

EAST‐レスキュー活動 第4弾
防災ボランティースト

全校を各学年混合の10グループに分け、地域の方や専門家の方を招いて9月に行った体験活動です(表参照)。災害時に「助ける人」になれるようにとの考えから、実施することになりました。

防災ボランティーストの体験活動

避難時の対応1
冷静さを保って素早く避難

2011年3月11日14時46分頃、地震が起きたのは生徒たちが放課後の部活動の準備をしている真っ最中でした。訓練通りに全員が校庭に集まると、「点呼はいいから、すぐにございしょの里(指定避難場所)に走りなさい」という指示が先生から出ます。
「私たちはいつも避難訓練で走っていた避難路を必死で走りました。ございしょの里まで500m。訓練時よりも足が重く、震えて息が早くなりました。それでも何とか辿り着き、“避難訓練の通りにしていれば大丈夫”と心の中で何度もとなえながら、素早く整列して点呼を取りました」(金野さん)。
少しして小学生の児童たちが合流。すぐに「ここは崖崩れがあるかもしれないから、もっと高い所、山崎デイケアまで避難します」という副校長先生の指示が出ます。

避難時の対応2
周囲の状況を把握し 即座に対応

生徒たちはこれまでの訓練通り、小学生の手を引きながら、さらに500m先の高台にある介護福祉施設を目指します。ございしょの里が津波にのまれたのは、それから間もないことでした。
「気持ちを落ち着けながら、小学生に“大丈夫だよ、大丈夫だからね”と話しかけました。私たちがしっかりしなきゃと、泣きそうなほど怖い気持ちを、奮い立たせました」(金野さん) 
介護福祉施設に到着した直後、施設の裏手から轟音が響き渡ります。「津波が来たぞ。逃げろ!」という大人たちの叫び声。子供たちはさらにその上の国道に向かって無我夢中で走り続けます。もうこれ以上は山しかないという国道沿いの石材店まで辿り着き、子供たちは思わず道路の真ん中にしゃがみこみました。彼らの目の前には、見慣れた街並みが津波にのまれ、押し流されていく信じられない光景が広がっていました。すべてが避難開始から30分足らずの出来事でした。

東日本大震災による津波が去ったあとの釜石東中学校
(釜石東中学校 提供)

これからの復興に向けて 
一生懸命に普段通りを大切に

今回の震災で約7割の生徒が住む家を無くし、通うべき学校も無くしました。そんな悲惨な状況のなか、生徒たちは被災後4日目から、避難所に避難している住民の名簿づくりを自発的に始めています。被災後最初のEAST‐レスキューの活動でした。
いま、生徒たちはこれからの復興に向け、しっかりと歩み始めています。防災教育はどうあるべきかという問いかけに、川崎さんが代弁した彼らの言葉は貴重な答えを導き出しています。
「私たちは“釜石の奇跡”と呼ばれているそうです。でも、これは私たちの普段の取り組みが起こしたもので、何も特別なことではありません。先生方は“普段をしっかりしなさい。勉強の時は学習のルールを大切にし、部活の時は練習を大事にし、行事では何のために行っているかを考えて真剣に取り組みなさい”と教えてくれました。
先生方は“普段をしっかりしていれば、本番では普段以上の力を出せる”とも言っていました。私たちはこの言葉を信じ、しっかり行ってきました。そして実際に、災害時には普段以上のことができました。
後から聞くと、“崖が崩れて危ないから、もっと上に避難した方がいい”とアドバイスしたのは、近くに住むおばあさんだったそうです。普段何気なく聞いている大人の話、お年寄りの話がどれほど大切かということを、いま、私たちは痛感しています。私たちはそのおかげで生きているからです。
これからの復興に向けて、私たちは前に歩いていきます。一生懸命、普段通りを大切にします。先生方はこうも言いました。“できないことより、できることを数えよ う。やればできる。震災に負けないでいこうな”と。
その通りです。私たちは負けません。たくさん笑って、たくさん最高の経験をして、みんなで支え合っていきます。私たちはこれからです」

3月11 日、東日本大震災当日。一緒に避難する釜石東中学校生徒と鵜住居小学校の児童たち

米崎小学校避難所運営役員  佐藤一男さんの報告

釜石東中学校のみなさんに続いて、岩手県陸前高田市立米崎小学校の避難所で運営役員を務めた佐藤一男さんが、避難所運営の際の重要な点について報告して下さいました。どれもが説得力に富んだ、重みのある言葉でした。

米崎小学校避難所で運営役員を務めた佐藤一男さん
(橋詰芳房 撮影)

急を要するリーダーと役員の選定

「お前は小学校に娘を迎えに行け。オレは息子を連れに保育園に行く。別々に行動するんだ。合流は高台の叔父さんの家。何回も話をしましたよ。地震が来たら家に戻るな」
震災当日の模様を克明に描写する佐藤さんの語りに、会場は水を打ったように静まり返りました。避難所の体育館では、まず第一に靴を脱がないことが大切だと佐藤さんは言います。いつ余震が起きてガラスが割れるかわからないからです。脱出時に靴を履くために玄関に一気に集中したら、大怪我のもとにもなります。だから、体育館の中では全員が土足でした。
役員の選定を行ったのは、震災後4日目のこと。佐藤さんは運営役員を引き受けることにしましたが、その際の鍵となったのは消防団の副部長という社会的な立場です。
「消防団の半纏(はんてん)というのは、いわば水戸黄門の印籠(いんろう)なんです。ある程度公的なお墨付きがあって、地域に密着している人がリーダーになるべきです。協議している時間はありませんし、いろんな人が乱立すると収集がつかなくなる。そういう意味では消防団は最適でした。今後に備えて、ぜひそういう人たちを積極的に育ててください」

避難所を運営する際の原則

役員を決めたら山積みの問題について策を取り決め、「こうやりたいです、ではなく、こうやります」と佐藤さんは強引に事を進めました。たとえそれが次善の策でも、躊躇せずに全員で力を合わせれば最善の策へと転化できるからです。
「役員が決まった後は、炊事する人、洗い場の人、物資調達担当というように、全員が役割を持つようにしました。そうやって互いに『ありがとう、ごくろうさん』を言うことによって、全体が安定したのは確かです」
コミュニケーションは全員で取るものの、個々の意見は基本的には途中では吸い上げないとも佐藤さんは言います。たとえいい意見が出たとしても、手をつけたことを途中で止めるとストレスが発生するからです。始めたことはとにかく最後までやり遂げ、その時点で新たな意見の芽を伸ばす。それが避難所生活をスムーズに運営するための原則の一つだそうです。報告の最後を佐藤さんはこんな言葉で締めくくりました。
「150人もいると、ほとんどの職業が揃います。自分一人ではできないことも、150人いればたいがいのことはできるんです。もしもまた大震災が起きた際は、ぜひとも協力して助け合って生き延びてください」

体験報告会では会場との質疑応答も行われた
(橋詰芳房 撮影)

基調講演と意見交換会

今回の報告会では、まず最初に中央防災会議委員等を務める田村圭子新潟大学危機管理室教授が基調講演を行い、最後に全員による 意見交換の場が設けられました。 ここでは話のポイントを要約してご紹介します。

田村圭子新潟大学危機管理室教授
(橋詰芳房 撮影)

当たり前のことを真剣にやる大切さ
田村教授  東日本大震災のような超広域に渡る複合災害は世界的にも例がなく、私たちの取り組みに対して世界が非常に注目しています。防災を担うためには、「自助」「共助」「公助」の3つが重なり合う必要がありますが(グラフ参照)、実際はこの3つは乖離しており、様々な悲劇が生まれました。
防災にあたっては「わがこと意識を高める」ことが非常に大切です。また、震災に遭遇した際には、冷静さを保つこともとても重要です。当たり前のことのように思われるかもしれませんが、人間は大きなショックを受けると「見当識」を失います。いま何をしていてどうすればいいか、まったくわからなくなるのです。その点で、今回の釜石東中学校の対応は見事だったと思います。
齋藤先生  学校が海の近くということもあり、津波が来ると大変なことになるというのはリアルな現実でした。先人たちの教え、津波の怖さをご年配の方々が子供たちに語ってくれていましたし、子供たちもしっかり受け止めて真剣に防災訓練に取り組んでくれました。今回の体験を通して、「当たり前のことを真剣に当たり前にやる」ことの大切さを伝えていきたいと思っています。

地域への感謝の気持ちと自らにエールを送る意味も込めて、いま子供たちは復興に向けた取組みを企画しています。この子たちの活動もまた国民栄誉賞に相応しいんじゃないかと私は思っているんです(会場から拍手)。

自然に気遣い合える環境づくりを
佐藤さん  避難所の役員会で決めたことが一つあります。「支援物資を役員は絶対に先に取らない」ということです。そんなことをすると、いいことを言っても誰もついてこなくなる。これは一番最初に決めて、避難所から仮設住宅に移る最後まで徹底しました。
今後の震災に備えるうえでのアドバイスとしては、「いざとなったらどこに集まるか」、せめてこれだけは家族親戚で話し合って決めておいてください。それが一つ決まっただけで、万が一の際に不安が一つ解消されます。そうすれば、家族を探しに行こうとして津波に遭うといった判断の間違いも少なくなると思います。
田村教授  いまは努力しないと絆を保持するのが大変な時代です。そういう絆をぜひ作っておいてくださいということを、みなさん、学校と地域の立場から訴えられたんじゃないでしょうか。避難時には顔を知っているかどうかが大切で、ちょっとの声がけや見守りが、人の気持ちを和らげます。自然に気遣い合えるような環境を、ぜひ普段から作っておいていただきたいと思います。

防災を担うためには、「自助」「共助」「公助」の3つが重なり合う必要がある(上)が、
実際はこの3 つは乖離している(下)
(田村圭子教授 提供)

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