防災ポスターコンクール 平成15年度以前のもの

「防災フェア 2011 」体験報告会


8月21日(日)体験報告会
「東日本大震災から学ぶ~ いかに生き延びたか~」
日時 :8月21日 (日)会場 :有明の丘広域防災施設内会議室
開演 :13:00 ~15:20

基調講演 田村 圭子 新潟大学教授

今回の災害で一番の特徴というのは、被害の大きさです。死者の数は15,000名を超え、行方不明の方々もたくさんいらっしゃいます。そして、人的被害だけではなく、住まいや建物等の被害も非常に大きかったです。

それから大きな特徴として、実は災害救助法の適用。青森から茨城まで10都県が被災した、超広域の災害と言わざるを得ません。そして、被害も様々な原因によって起こりました。 地震による揺れ、それから津波。また液状化といって、地面が緩んでしまうことにより建物が被害を受けるということも発生しました。さらに原子力発電所の被災もありまして、ありとあらゆる事象に対して、広い目を持って対応することを余儀なくされております。これについても、おそらく世界がそう経験したことのない複合災害というような視点を持たなければならないと思います。
今回の災害では、映像機器の発達により多くの津波被害の映像が残され、それが全国に放送されたことにより、皆が瞬時に災害を目の当たりにする事が出来たことも一つの特徴としてあります。どうしても、人は目の前の体験に捉われがちですが、他にも同じような経験をされたり、地域で特殊な経験をされている方もいらっしゃいます。それら皆様方の経験をあまねく集めて一つの物語にして、皆で共有していくことが必要ではないかというふうに考える次第です。

私どもは、この東日本大震災を受けて、専門調査会を開いております。東日本大震災では、当初予想されていたよりも地震の規模、津波の高さ・強さ。それから水が及んだ広さ、広域に渡る地盤沈下の発生、人的・物的被害の大きさがはるかに甚大であったことから、想定が上手くいかなかったことを大きな反省として受け止めました。専門家の間では、過去に発生したことが分かっていても、科学的にはなかなか証明出来ないことや、具体的なモデルが立てられないことについて、今まで想定から外して考えていました。しかし、 今回の被害の甚大さを受けて、それではいけないのだと、過去にそのような疑わしいような事実を把握した場合は、それを積極的に想定に取り込んで行こうではないかということを決心致しました。
 今後、全国の地震・津波の想定というのは大きく見直されて一段と厳しいものになっていくものと予想されます。そして、我々地域に暮らす者にとっては、これらの被害想定に対してどのように対応すべきなのかということを、具体的に考えなければならない場面に立たされていると思います。
 日本という国は、地理的にどうしても地震や津波からは避けられないことから、東日本大震災で皆さんが経験されたことを我がこととして受け止めなければならない。ではこれに対してどのように備えて行くのかということになりますが、防災の担い手は「自助」・「共助」・「公助」の3つの輪を重ね合わせることで地域が強くなるとよく言われています。自助は自分だったり、家族だったり、身の回りの人達。共助というのは地域。そして、公助というのは区や市町村の行政というところかと思います。
 このように書くと、何となく今世の中にこうしたものが存在しているように思いますが、実はなかなかそうではありません。自分達・家族については、地震や津波について備えている方もいれば、備えてない方もいるでしょう。地域で上手く備えている所もあれば、そうでない所もある。行政でもその取り組みには濃淡があるかもしれません。地域全体が広く被災した時に皆さん全体でどう取り組むべきか、どうやって全体に協力していくのかについては、まったく考えられていないと言っても良いのではないでしょうか。それが東日本大震災において様々な悲劇を生んだということは、皆さんご承知の通りかと思います。これからお話しされる体験談というのは、この自助・共助・公助の3つを上手く組み合わせて強いものとすることによって、人々の命が救われたり、命を長らえる事が出来たお話と伺っております。
 是非皆さん、このお話を聞いて我が事に意識を高めて下さい。日本に地震が起こるかもしれない。津波が起こるかもしれないということが分かっていても、なかなか日々の生活に流されて防災の事まで意識が高まらないのも事実です。東北の皆さんが経験された事というのは、紛れもなく日本人全員が、今後将来に渡って経験するに違いない事であります。我が事であるという風に受け止めて初めてこの貴重な経験を共有する事が出来ます。
 私どもは防災のリテラシーの向上というような言葉で、それを説明しようとしています。リテラシーというのは、元々は読み書きが出来るという意味ですが、発展的な意味としては、あるフレームや公式にあてはめて新たな事態や課題を解決する能力を身に付ける事と定義できます。今日は皆さんと一緒に貴重な体験談を聞きながら、新しい防災リテラシーというものについて構築していきたいと思っています。今日の体験談を是非我らの事のものにして防災リテラシーを向上させながら、東日本大震災から是非我々は体験を取得していきたいと思っております。

体験報告1:岩手県釜石市立釜石東中学校


はじめに


先生   皆さんこんにちは。本日、私たちはこの防災フェアのシンポジウムに参加する為、 岩手県の釜石市からやって参りました。巨大地震、そして大津波を体験した私たちが、今回の東日本大震災を通じて学び得たこと、そして私たちだからこそ伝えられること、伝えなければならない事を今日は出来る限り皆さんにお話したいと思っております。私たちの経験が、今日お話を聞いて頂く皆さんを通じて何らかの形で防災の種として伝われば幸いです。


生徒   津波。私達が海の近くで生きていく限り避けられない天災。だからといって、ただ待つだけで良いのだろうか。私達中学生にも天災から逃れるため、被害を最小限に留める為に何か出来ないだろうか。

そんな思いから発足したのが EASTレスキューという活動でした。  活動を通じて、私たちが目指したものが3つありました。 1つめは、「自分の命は自分で守る」。津波や地震についての知識を身につけて、災害時に自分で判断し行動できる事を目指しました。2つ目は、「助けられる人から助ける人へ」。中学生になってからの役割を考えた時、自分の身の安全を確保した後、自分達も何か出来るようでありたいと思いました。3つ目は、「防災文化の継承」。地域に伝わる先人たちの言い伝えや教えなど地域に伝わる防災文化を学び、今度は私たちの手で次の世代に引き継いでいきたいと思ったのです。  想いを込めてスタートしたEASTレスキュー。ここでは、私たちが取り組んできた代表的な活動をいくつか紹介します。


EASTレスキューの取り組み

生徒   第一弾として行ったのが、鵜住居小学校との合同避難訓練でした。本校と鵜住居小学校は道路を挟んで真向かいにあるのですが、海に近く、津波発生時にはどちらも学校から避難しなくてはなりません。避難訓練では、自分達が逃げながら、小学生を手助けする訓練を行いました。また、小・中に具合の悪い生徒やけが人がいるという設定も考え、リヤカーの使用や肩貸し、おんぶ訓練等も行いました。海辺に住む私たちにとって避難訓練は形だけのものではなく、最悪の場合に備える真剣な練習でした。
 第二弾として行ったのは、宮古工業高等学校の皆さんから学ぶ出前講座でした。パソコンでこれまでの津波の歴史を教えてくれたり、津波浸水模型を使って、津波がどう押し寄せるのか説明してくれました。宮古工業高等学校の皆さんのお話を聞いたり、模型実演を見たりしながら私たちは津波の怖さを改めて分かりました。それと共に、この事をもっと自分達が伝えていかなければならないと強く感じました。海の近くに住む人にとって、ただ分かるだけでは足りない。分かってどう行動するかを考え、そして、実行して行かなければならないと思ったのです。
 そこで私たちは、学んだ事を生かそうと考え実行に移すことにしました。それが「安否札」の配布です。安否札とは、避難する際玄関先に「避難しました」と札を掲げる事によって、地震・津波が来た時に家に入って確認をしなくても、その家庭の安否の状況が分かるという札です。これを地域に1000枚配布しようと考えたのです。ぎこちない説明でしたが、話を真剣に聞いてくれて「ありがとう。使うからね」などの言葉をかけてくれました。また、説明を聞くだけでなく、使い方についてより詳しい質問をされたり、さらに良いものにするためのアドバイスをもらったり、他に配布してほしい家があると紹介されたりと、ただ渡して受け取ってもらえるだけではない、本当の交流も数多く生まれました。
 安否札を配布した私達は、もっと学校の外の人々と交流を持って、学びを深め広げて行こうと考えました。そこで行ったのが防災ボランティーストでした。全校を各学年混合の10グループに分け、地域の方や専門家の方を招いて体験活動を行ったのです。 また、自分達の取り組みが自分達自身に返ってくる形にしたいということで始まったのが、第五弾のEASTレスキュー隊員制度です。ボランティア活動や地域との関わりに数多く参加した生徒が認定される制度で、これまで15名程が一級の認定を受けています。このようにして実行したことを実力という形にしていこうとしていました。いつか必ず来ると言われてきた大地震と津波。私たちはそれらに備え、EASTレスキューの活動を通じて、着々と準備を進めていました。


平成23年3月11日 午後2時46分

生徒   私たちは放課後の部活動練習の為に、それぞれが準備をしていました。その時、信じられないくらいの揺れを感じ机の下に潜ったり、校庭付近でしゃがんだり、手で頭を押さえてじっと耐えていました。鳴り止まない地鳴り、止まらない揺れ。校舎がこのまま倒壊してしまうのではないかというくらい激しい揺れが長く続きました。揺れがやや治まり、避難訓練の通り校庭に行くと皆が集まってきていました。そして、そこで聞こえた指示は、「点呼は良いから、すぐに(避難場所の)ございしょの里に走りなさい」というものでした。私たちは、いつも避難訓練で走っていた避難路を必死で走りました。訓練の時よりも足が重く、進まない気がしました。それだけ怖かったのです。それでも、なんとかございしょの里までたどり着いたのです。いつもの通り避難訓練の通りしていれば大丈夫。と心の中で唱えながら、素早く整列点呼をしました。少しして、小学生がやって来て私たちの隣に整列しました。
 ございしょの里にたどり着いても余震は治まらず、ずっと揺れていました。自分達が整列点呼をして数分、校長先生が次の様に話しました。「ここは、崖崩れがあるかもしれないので危険です。もっと高い所へ避難します。山崎まで行くので、皆さん立って下さい」。私たちも小学生もスッと立ち、更に上の山崎デイケアを目指しました。小学生が一緒になったので、これまでの訓練のように小学生の手を引きながら山崎デイケアを目指しました。泣きそうなくらい怖い気持ちを奮い立たせていました。私たちが後にしたございしょの里は、この後来る津波に完全にのまれました。もし、私たちがあのまま待機していれば、私たちも流されていました。
 山崎デイケアまで全員がたどり着くか着かないかで、整列がまだままならないその時です。建物の裏手の方からゴゴーッという大きな音が聞こえてきました。津波が来たとすぐに分かりました。大人たちが叫びました。「津波が来たぞー。逃げろ!!」津波の押し寄せて来る恐ろしい音と叫び声が混じり合い、その中を更に更に上の道路に向けて無我夢中で走りました。後ろは一度も振り返りませんでしたが、恐ろしい波の音が迫って来ているのは感じていました。私たちは、もうこれ以上、上は山しかないという国道まで走りました。
 まるで、現実ではないような映画の様な風景が目の前に広がっていました。でも、これは逃れられない現実で、私たちはその現実を生き延びたのです。津波は、想定をはるかに超えていました。私たちの町は流され多くの物を失いました。見慣れた町の姿はなく、見渡す限り泥と瓦礫で覆われていました。私たちの学校では家が流されたり浸水したりした家庭が68%。約7割の生徒が住む所を失くしました。通っていた中学校も完全に海の中に沈みました。


釜石東中学校の今

生徒   大津波のあった3月11日から私たちは転々と住家を変えてきました。気持ちが苦しくなったり、体が疲れる事が何度もありましたが、それでもここまで生きてこられたのは、全国、そして全世界からのたくさんの支援があったからです。たくさんの支援を頂きながら思うこと。感謝。そして支援に応えたいという思いです。ありがとうという気持ちと共に助けて頂いた私たちだから出来る事を実行していくこと。それは私たちが経験した事を広く・深く伝えていく事だと考えています。たくさんの人たちが色々な形で私たちを支えてくれました。それは、ここでは紹介しきれないほど本当にたくさんの支援です。一生懸命励ましてくれる人がいる。一緒に泣いてくれる人がいる。肩を叩いて笑ってくれる人がいる。私たちは孤独じゃない。日々そう痛感しています。
私たちは「釜石の奇跡」と呼ばれているそうです。この奇跡はどうやって起こったのか。それは、私たちの普段の取り組みが起こしたものです。先生方はいつも話してくれました。「普段をしっかりしなさい」と。だから私たちは普段の小さな事をしっかりやってきました。先生方はこうも言っていました。普段をしっかりしていれば、本番で普段以上の力を出せると。私たちはこの言葉を信じてきました。そして、信じ行ってきた事で、あの想定外と言われた大津波に遭っても普段以上の行動が出来、それがこの日学校にいた皆の命を救ったのです。何も特別な事はありません。普段をしっかりすること。言うほど簡単ではありませんが、そうする事で良い事を起こす事が出来るのです。私たちがその証明です。
 4月25日から市内の中学校を間借りして、今年度の授業が再開されました。学年全員で授業を行わなければならない今、大切にしていることは普段通り授業を行うこと。人数が多くなったことを言い訳にしたり、人数が多くなる事でだらしなくなるのは、東中生としての誇りが許しません。だから互いに声を掛け合って普段通り行うよう心掛けています。
 被災した当日、私たちは先生達の指示に耳を集中させました。それが、命を繋ぐ声だと信じていたからです。その先生達に「もっと上に避難した方が良い」とアドバイスをしたのは、釜石にずっと住んでいるおばあちゃんだったそうです。普段、何気なく聞いている大人の話。お年寄りの話。それがどれほど大切なものか痛感しています。何故なら、私たちはそのお陰で生きているからです。お年寄りを大切にするのは、弱くて守ってあげなければならないからではなく、私たちに知恵を授けて守ってくれる存在だからです。大人の話を聞くべきなのは、大人は私たちを思って話してくれているからです。大人の人は私たちに言います。「よく生きたなぁ。おめぇたちが釜石の宝だ。大丈夫。おめぇたちが大人になる時には、釜石は復興してっから」
 私たちは信じています。だから共に復興を目指したい。そこで、これまでの防災ボランティーストに加え、発信と自ら行動する復興ボランティーストをスタートしようと計画しています。信じる大人と共に私たちも釜石を立て直していきたいのです。お年寄りの大切さを身を持って知った私たちは、お年寄りに感謝を具体的な形で表したいと考えています。そこで大きな規模でなくても、各学年で復旧した施設を訪問し、歌を通じて感謝を表しながら、ふれ合いのコミュニケーションを持つ施設訪問コンサートを行いたいと思っています。この他にも地域に感謝の気持ちと自らエールを送る釜石第九コンサートや被災した釜石市を元通りにするのではなく、より良い町にしていこうとデザインする企画なども考え中です。私たちに何がどこまで出来るか分かりません。でも大丈夫。私たちには頼りになる大人、そして知恵をくれるお年寄りたちがついているのですから。


終わりに

生徒   今日、岩手県の釜石から、遠く離れた東京の有明でこのように私たちの話をしているのは、とても不思議な気持ちになります。今日私たちがここで話したことが、話を聞きに来て下さった皆さんと少しでも分かち合えたなら、私たちはここにいる意味があります。皆さん、どうか今日の話をどこかで誰かと話して下さい。私たちと皆さんの繋がりを広めて下さい。釜石で先人たちの教えが語り継がれてきたように、私たちも皆さんに今回の東日本大震災で学んだ事を語り継ぎました。どうか忘れないで下さい。そして、どうか語り継いで下さい。私たちは引き続き市内の中学校を間借りして生活をします。慣れない事や不自由な事がまだまだ続いていくと思います。でも、私たちは前を歩いていきます。一生懸命普段通りを大切にしていきます。先生は言いました。「出来ない事より、出来る事を数えよう。やれば出来る。震災に負けないで行こうな」と。
 その通りです。私たちは負けません。たくさん笑って、たくさん最高の経験をして、皆で支え合っていきます。私たちはこれからです。


先生   本日は、たくさんの方々にいらしていただき、本当にありがとうございました。 またどこかでお逢い出来る日が来る事を願ってこの発表を終わりたいと思います。


体験報告2:陸前高田市 佐藤 一男氏


佐藤   皆さん、こんにちは。岩手県陸前高田市米崎町という所から来ました佐藤一男です。

地震の時

地震の時、私は海の上にいました。船を港から出して、5分程度走っていました。地震が船を揺らすのです。海の上にも地震は伝わります。バケツに水入れて縁を叩いてみた事がありますか。波が伝わって真ん中に来ます。陸からその波が全部海に向かってくるんです。それも四方八方から。何が起きたか分かりませんでした。船の上に立っていられない。その時にポケットの中で携帯電話が緊急地震速報を鳴らしてました。「あっ、尋常じゃねぇ。やばいこれ」って。見渡すとあちこちで土砂崩れです。見た事のない光景です。土煙が上がって物凄い光景でした。

次にとった行動がまず港に戻る。
 ニュースで大きい船が沖に向かって走るという話を聞いた事があると思います。実は私の所は船で走った場合に、津波が湾内に来る前に、湾を出れる保証 がないのです。なので私はすぐに陸に戻りました。 すぐに戻って作業場の従業員にも「帰れ。すぐ帰れ。いつもの道じゃなくて一回山に上がって、山から下りる道をたどって帰ってくれ」と。浜に住む人間は、今回の津波を予想してました。東北は東南海より先に地震が来ると言われてました。来たらとんでもない事になるぞと。でも、ここまで酷いとは思いませんでした。
 次に私は家に向かいました。海からたった100mです。家に妻と1歳の長男がいました。「逃げろ」「だって財布持っていって・・通帳持って・・」「そんなものいらねぇ!!」息子の命を天秤にかける気はありません。「この規模の地震になったら、とんでもねぇことになる。逃げろ」「どこに行けば良い」「おめぇは小学校に、娘迎えに行け」「俺も・・別々に行動するんだ」そして合流は高台のおじさんの家。
 家の爺さんがそれを決めたんです。大きな地震あったら絶対に家に戻るな。高台のおじさんの家に集合。それぞれで逃げる。そうすることで短時間に効率よく高台に全員が集合出来ます。そして、まさかと思った津波が来ました。おじさん家の裏の山。一番高い所から、とんでもない規模の津波が目の前に来てました。家が流される。バキバキバキッ。いろんな物がぶつかってギシギシギシッ。そんな中に人の声がするんです。何ともならないんです。情けなくて、悔しくて、それが今回の津波の脅威です。
 一つは油断なんですね。「今ある防潮堤より高い津波が来たことない。だから、今度も大丈夫。」、「今までの津波警報でも丘に津波上がった事ないから大丈夫」、このセリフ、津波に下半身まで浸かって、皆に引きずり上げられて助かった人のセリフです。同じことを考えて、帰ってこれなくなった人もいっぱいいると思います。もう一つ。自分の家は海から離れてっから大丈夫。今まで来てなかったから大丈夫。そういう勘違いもしてました。
 二つ目に不安が判断を間違わせます。家族逃げたか心配だから見に行ってくると言って、一回、避難所に来てた人が呑まれてるんです。寒いから、ギリギリまで逃げるのを待つ。一回避難所に来たのに、「ここ寒くて分かんねぇから毛布取りさ行ってくる」「お金持ってきてないから取りに行ってくる」、今のセリフは「やめろ」って言った人に返した、その人たちの最後の言葉です。これを言った人すべて「すぐ戻ってくるから」と言って二度と戻って来ませんでした。 30年前に亡くなった爺さんが、俺が小学校のとき、「100回地震あったら、100回逃げろ。どうせ逃げんなら、人の倍逃げろ。臆病者だ。小心者だと言われるかもしんねぇ。でも100回目の本物の津波で流されるから。だからお前はちゃんと逃げろよ。」と何回も何回も言って聞かせました。その言葉があったお陰で、私は助かっています。

避難生活

震災当日の夜に、話を戻します。非常に寒い日でした。避難所に指定されていた建物が津波で流されたので更にその上の中学校に逃げました。何にもない状態で体育館に300人集まりまして、近所の家から毛布を集め、皆でまとまって集まり押しくらまんじゅうの状態で暖をとりました。近所の人も怖くて家にいられないので一緒にその体育館に避難しました。その時にみんなが米を持ってくるので、中学生に近くの焚き木を拾わせて、火をおこして、中学校の調理室から鍋持ってきて、米を皆で煮炊きして、人数で割ると、小さなおにぎりが1個ずつ。それでも足りなくて、お父さん方、自分も含め、煮炊きした周りの米や鍋の底のおこげで一晩を過ごしました。娘が「父ちゃん、寒い。おなかすいた。帰ろう」って言ったとき返す言葉がなかったです。ギューーーッと抱っこして「ごめんな。ごめんな。ごめんな。お父さんも今、温めるからな」それしか出来ない。その時、一番後悔しました。高台に家造っていたら良かったと。浜だからといって、便利なところに家造るんじゃなかった。
 その晩、追い打ちをかけるように何度も余震が起こりました。翌朝、余震は更に爪痕を残していました。体育館の壁と中学校の校舎に亀裂が入っていたのです。いつ崩れるか分からないから、その中学校にいることができません。場所を色々探したら、中学校より低い所に小学校(米崎小学校)がありました。そこはギリギリ50m手前で津波の被害から免れていました。そこに移って本格的な避難生活が始まりました。
 まず困ったことが食べ物。近所から米はもらえるんですけど水がないのです。水道が断水してます。井戸水・湧水・沢水は出ますけど地震の影響で濁っているんです。でも背に腹は変えられないです。濁った水を一回沸かして、それで消毒。しばらく置いて、濁りが沈んだら水だけ使います。そういう生活をしていました。
 更に、小学校の体育館に入ったのですが、万が一に備えて覚えておいて下さい。靴は脱がないで下さい。余震でいつガラス割れてくるか分からないですから。また、地震が来た時には、逃げなきゃダメなんです。地震が治まってから。津波怖いから。皆して靴はいて、一か所に集中したらパニックです。だから全員体育館の中に土足です。 もう一つ欲しかったのは正確な情報。まず車に入っている分しかガソリンがないんですよ。でも、隣町まで行ければ、ガソリン入れてもらえたって聞いて、みんなで隣町までなけなしのガソリンはたいて行ったけどダメだった。次の日には高台に上がると、携帯の電波がちょっと入るんです。また無いガソリン使って、山の上に皆で上がるんです。そうやってガソリンを無駄にしました。だからと言って、誰も止められないんです。心のどこかで「あの人が成功したら、次俺行こう」って、そういう状況がパニックを起こして、しなくてもいいことをしていました。

役員として

避難生活で、まずしなければいけないのは、食事をきちんととって、必要な物かき集めるということです。その時に自然と音頭取る人が出てきます。その人に「役員になってくれ」と言います。ただの人が何か言ったって反対意見が出ます。役員ですって名前付けて役員会をやります。「役員会で決めました」、「こういうふうにやります」。「やりたいです」じゃないです。そんなことしている余裕はないのです。最善の策じゃなくても良いです。皆で力を合わせれば、次善の策が最善の策になるからこうやります。強引にいきました。それが効を奏して、我が米崎小学校の避難所はほとんどトラブルがありませんでした。
役員の選任の8日目。更にそこから細かく食事の炊事する人、盛り付けする人、洗い物する人、物資調達担当、重たいもの担当、軽いもの担当というふうにして、細かく全員に役職を付けました。そうすることによって一体感が出ました。でも誰かがこれをやらなきゃいけないのです。私は消防団に所属しています。陸前高田市消防団は各町ごとに分団があり、その分団ごとにさらに一部・二部・三部とあって、そこの副部長をやっています。なので消防団の半纏には「長」って付くのです。部長はその避難所を分類するに当たってこう言いました。「一男お前残れ」「何で俺・・」「『長』付いてるから」「副ですよ」「だって、俺は捜索に行かなきゃならない。お前はここにおれ」
 様々な集落の様々な人が集まっている。その中で誰かトップにするのかは簡単には決められない。その時にモノを言うのが消防団の半纏です。水戸黄門の印籠と同じで威圧感があります。避難生活では協議している時間がないのです。後からもっと良い方法が出てくるかもしれないけど、今はこうするしかない。それを役員で決めるには、半纏がものをいうのです。300人全員、誰一人文句言いません。どの地域でもどういう団体でも、責任の取れる人材や音頭取れる人材を育てていただきたい。抵抗して色んなものが乱立すると逆に収集つかなくなる。ある程度こうっていうお墨付きがあり、地域に密着しているという意味では、消防団は最適でした。基本、消防団はどの地区にもあることになっているんですけど、そういう人たちを積極的に育てて下さい。いざっていう時に絶対必要です。そこに至るまで、まず皆さん、生き残って下さい。
 簡単なシミュレーションを一つ。日曜日の朝、起きたらブレーカー落として下さい。水道の元栓全部閉めて下さい。夜までそれで生活してみて下さい。津波よりも良いですよ。津波だと何もないです。自分の家の敷地に自分たちの物がない。食料も生活用品も何にもないです。せめて一回、電気と水のない生活を半日でもいいのでやってみて下さい。それをやったかどうかで生き残れるか、いかに生き残る工夫が出来るか。この練習、絶対効果あります。家族で知恵絞って、その半日、電気と水のない生活を乗り切ってみて下さい。これが生き残るコツになります。

終わりに

被災地の復興のニュースがいっぱい流れてます。でも、未だに田んぼの真ん中に車や船がひっくり返ってます。復興にはまだまだ、一部の人が復興への足がかりをつけたっていうだけです。8月14日に陸前高田市の避難所が全部解消しました。でもそれはやっと全員がスタートラインに立ったというだけです。
 色んな人に支援して頂いて、ここまで来ました。まだまだ時間かかります。陸前高田だけじゃなくて、岩手県だけじゃなくて。見守ってて下さい。メディアの皆さんにお願いします。細くても良いです。長く「まだ被災地が被災しています」と。「復興してます」じゃなくて、「被災地が、被災したままです」というニュースを。細くても良いです。長く流して下さい。ホントにお願いします。
 東北の次は、大きな地震と津波が関東から静岡に起きると言われています。皆さん、協力して生き残って下さい。近所の人・職場の人。協力出来れば、命繋がる可能性は数倍高くなります。自分ちだけで助かろうじゃなくて、皆で集まれば150人ほど揃います。自分一人じゃ出来ないことも150人でやれば大概出来ます。協力して助かって生き残って下さい。ありがとうございました。


パネルディスカッション

田村    齋藤先生に、学校の中で防災教育を続けていくのはとても大変かと思うのですが、全国の中学校の学校の皆さんにご提案があれば、是非ご紹介ください。

齋藤先生  私共教師は色んな学校を回りますけれども、中にはどうしても真面目にやらない学校もあります。

でもこの子たちは、やはり海の近く、それこそ500mの距離というところにあるので、津波が来るとか、地震が来たら大変なことになるっていうのがリアルなんです。そう考えた時に、本気になってやらなきゃダメなんだよっていうことを事前に話しました。平成20年に取り組みをスタートした時にそれを一回だけ話したのですが、その後言ったことがないです。それは、この子ちが先輩から言われ、そしてしっかり後輩に引き継いでくれているからです。この経験から学び、全国の中学校に伝えられることは、「当たり前のことを当たり前にやる大切さ」です。

田村    佐藤さんにもお話をお聞きしたいのですが、地域でこれまで活躍されてきた事が、リーダーシップを取るきっかけになったとのことですが、いざ避難所を運営する立場に立たされたときに、日常からどういうことに気を付けておけばよろしいでしょうか。

佐藤    避難所での最初の役員会で決めた事が一つだけあります。それは、支援物資を役員は絶対先に取らないということです。支援物資を役員が得するような形で取ってると、良い事を言っても誰もついてこなくなります。それを一番最初に決めて、最後まで全員で徹底しました。避難所を運営する立場になったら、周りの人が話を聞いてくれるよう運営に携わってほしいと思います。

田村    ありがとうございました。ではここからは、今日来て頂きました皆さまからもご質問を頂戴したいと思います。

質問者(男性) 中学校の方で合同避難訓練をする際、障害のある子供たちとの関わりについて、これまで取り組んで来られてきたか教えていただきたい。それから、避難所生活の中では、障害のある方、あるいはご高齢の方は、普段と違う環境の中でパニックになった方もいらっしゃる。そういった時にどのような事が出来るか、何かご経験された事を教えていただきたい。

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齋藤    けが人とかお年寄り、小さな子のケースという事で、いくつか練習はしていました。特に今回の津波とは別の地震の時には、リヤカーに人を乗せたりおんぶしたりして、避難したことが何回かあり、そういうのも実際に体験してたので、普段から、この子たちはちょっとしたヒントから、助けるっていう意識を防災の活動を通して高く持っていたのではないかと思います。リヤカーは学校にあるとかなり有効だと思います。普段は運動会で綱引きの綱移動準備時くらいしか使いませんが、被災した時に足をけがしている子とか、骨折している子って何かしらいるんですよ。リヤカーには4,5人乗せられるので、怪我をした人やパニックになった人たちを乗せて命をつなぐっていうことも現実にあります。

佐藤    実は軽度の障害の子がいましたが、基本は役割分担を持たせて、皆でやる事をやる。その中で何か一つを担ってもらう。そうすることで、まったく仕切りがない状況でも環境に順応していました。勿論、24時間、身内の人が付きっきりです。そういう意味でも安定していたと思いますが、お互いの役割を持って、役割を終わったら皆がそれぞれ、「ご苦労さん」「ありがとう」と言うことによって、全体が安定して運営できました。高齢者で一番困ったのは、透析が必要な人がいたことでしたが、避難した方の中に3人看護師さんがいたことで大きく助かりました。人数のいる避難所の強みは、色んな技術や色んな能力を持った人が集まるということです。看護師さん3人いるだけでも何とかなるものです。

質問者(女性) 釜石東中学校の取り組みで挙げられた3つの点のうち、「自分の命を自分で守る」っていうことが最優先されるべきだと思うのですが、中学生の方とか、本来守られるべき立場の方を、そういう危険に関わらせるっていう活動をなされるということで、ご苦労もあったと思うのですが、何か感想みたいなものはありますか。

齋藤    岩手県には「てんでんこ」(津波が来たらてんでバラバラに逃げなさい という意味)という言葉があります。まず、自分の命を守ることを最優先にはしてきましたが、活動をするにつれて、子どもたちからこんな事を言われたことがありました。「先生。何で防災って色々やっているのに、うちの学校こんな海の近くなんですか。」学校って普通は避難場所になりますが、うちの学校はそこから逃げなければいけない。勉強するにつけ、一番危ない所に住んでいるという事を自覚させる事からスタートさせなければならなかったので、すごくジレンマがありました。そこで私たちは防災を勉強していくにあたり、中身を変えていくしかなかった。だから子供たちにも怖い話や怖い例を話さざるを得なかった事がたくさんあるのですが、それでも子供たちが話を聞いてくれたのは、きっと先人達の教え、おじいちゃんおばあちゃんたちが子供達にしゃべってくれてきたし、私たちもその地域の方々からお話を聞けたから、子供達もそれほど抵抗なく受け止められたのかなと思います。

質問者(男性) 震災を受けられた後の行政機関の対応につきまして、これは一番良かった点と、もっとこれを早くしてほしかった点を教えて頂きたい。

佐藤    今回の地震・津波で消防団の屯所も流されました。その後何回も余震があって、やっと電気が通ったところで火災が発生したのです。原因は不明ですが、おそらく漏電です。ただ屯所が流されたのでホースがありません。それをツイッターでつぶやいたら、横浜からホースが届いたのです。消防用のホースは全てが税金で賄われています。市の備品なのでそれを寄こすわけにはいかない。そこで横浜の消防団の人が義捐金を集めてホースを買って送ってくれたのです。消防として緊急備品は早く欲しかったですね。あと出来る事であれば、無線機が欲しかったです。携帯が繋がりませんし、勿論、固定電話もないので連絡のしようがない。火事が起きても消防団員を集めるのに、携帯も防災無線も無い。大量の無線機が欲しかったです。

田村    最後に一言ずつお話をお聞きしたいのですが、釜石東中学校の皆さんには、皆さんに興味を持って頂けるよう呼びかけを是非して頂けたらと思います。それから、佐藤さんには是非、今回の経験を踏まえられて、どういうふうに取り組んで行けば、みんなで考えるような機会が増えるのかということについて、アドバイスを最後に頂戴出来ればと思います。

齋藤    今日この子たちと一緒に会場に来て頂いている皆さんにどうしても伝えたいという決意を持って来ました。今日、お話聞いて頂いた事で、皆さんが今後防災を進めるにあたっての一助になればと思ってます。この子たちは「釜石の奇跡」と言われてもピンときてないんですね。実践してきた事を自分達はちゃんとやったんだって言ってくれるんですが、そう言ってくれるこの子たち自体が「釜石の奇跡」なんです。今日は長い時間でしたが、お話聞いて頂いてありがとうございました。

佐藤    皆助かりたいですよね。家族助けたいですよね。親戚も助けたいですよね。せめて「いざとなったらどこに集まる」これだけは家族・親戚と話しあって決めておいて下さい。それが一つ決まっただけで、万が一の場合は、不安が一つ解消されます。そうすれば、判断を間違える事は少なくなると思います。たまにでも良いです。家族で、親戚で「何かあったら、ここに集まろうな」っていう場所を話しあって下さい。

田村    今日は、本当に貴重なお話を頂戴しまして、どうもありがとうございました。この方々のお話を無駄にすることのないように、今日は家に帰って、そしてこのお話を地域の皆さんと、また盛り上げて頂きたいと思います。

所在地 〒100-8914 東京都千代田区永田町1-6-1 電話番号 03-5253-2111(大代表)
内閣府政策統括官(防災担当)

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