05.1853年噴火では、頂上火口で大きな爆発があり、現在の大有珠を形成した。

 【区分】
第1期 有珠山の歴史(2000年噴火以前について)
1-01.有珠山について
2.有珠山の過去の噴火
【教訓情報】
05.1853年噴火では、頂上火口で大きな爆発があり、現在の大有珠を形成した。
【文献】
◆嘉永6年(1853年)、旧暦3月5日から地雷・鳴動が起こり始め、しだいに激しくなった。15日には山頂部の東側で噴火が始まり、噴火は22日に最高潮に達し、その後やや衰え27日頃までつづいた。旧暦3月28日、地震はまだつづき、一面に赤く光る大有珠溶岩円頂丘(アシリヌプリ、新山の意)があらわれ始めた。円頂丘は2年後も至るところから白煙を放出していた。1853年のUs-IIIa降下軽石・火山灰も山体からおもに東側へ分布している。その上位には、厚さ0.3~3mの分級の悪い軽石・火山灰からなる火砕流が東側および北側斜面に堆積している。つまり、1853年の噴火でも火砕流が発生したが、文政火砕流のような大災害にいたらなかったのは、当時集落のあった南麓の海岸地方に火砕流が流下しなかったためであろう。[門村浩・岡田弘・新谷融『有珠山~その変動と災害~』北海道大学図書刊行会(1988/6),p.230]
◆嘉永6年(1853)、旧暦3月5日から地震・鳴動が起こり始め、しだいに激しくなった。15日には山項部の東側で噴火が始まり、噴火は22日に最高潮に達し、その後やや衰え27日頃まで続いた。旧暦3月28日、地震はまだ続き一面赤く光る大有珠溶岩ドーム(アシリヌプリ、新山の意)があらわれ始めた。ドームは2年後も至るところから白煙を放出していた。[『昭和新山、有珠山の噴火と災害対策』北海道(1995/10),p.3]
◆旧暦3月5日(新暦4月12日)から地震・鳴動が起こり始め、次第に激しくなって、15日には山頂部の北東側で、1822(文政5)年噴火から数えて31年振りに噴火がはじまり、火山灰や砂礫を噴出した。噴火は22日には激しさを増し、27日頃まで続いた。そして、地震はまだ続いていたが、28日には「一面に赤く光る」大有珠溶岩ドーム(“アシタヌプリ”新山の意)が現れ始めた。この噴火によって、火口原の中に大有珠といわれた溶岩ドームが形成されたのである。このドームは2年後も至る所から白煙を吹き上げていた。この噴火の後期には、有珠山は再び「嘉永熱雲」とか「立岩熱雲」とかいわれている火砕流を噴出した。すなわち、前半部分の噴火で噴出した降下軽石・火山灰層の上に、森林を焼いたための多数の炭化樹幹を含んだ火砕流による堆積物が厚さ2~3mで分布しているのである。この堆積物は、有珠山の北東側にあたる、現在の洞爺湖温泉や壮督温泉方面に分布している。当時、この地域には人家がほとんどなかったためと、集落のあった南麓の海岸方面には火砕流が流下しなかっため、人的被害の記録はない。この噴火の終盤で形成された大有珠溶岩ドームは、その後も成長を続け、その高さは1889(明治22)年で595m、1905(同38)年で692m、1911(同44)年で740mと測定されている。[小田清「北海道・有珠山噴火の歴史と周辺地域の概要」『開発論集 第71号』北海学園大学開発研究所(2003/3),p.5-6]

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