02.1663年噴火では、多量の火砕物降下で家屋が埋設・焼失し、5名の死者が出た。

 【区分】
第1期 有珠山の歴史(2000年噴火以前について)
1-01.有珠山について
2.有珠山の過去の噴火
【教訓情報】
02.1663年噴火では、多量の火砕物降下で家屋が埋設・焼失し、5名の死者が出た。
【文献】
◆旧暦7月11日に地震が始まり、14日に山頂付近から噴火が始まった。噴火・地震は15日にピークを迎え、プリニー式噴火によって噴出した膨大な量の軽石・火山灰のため、山麓で5名が死亡した。山麓には、直径数十cmを超えるような巨大な岩塊が飛来した。その後も、水蒸気爆発が頻発し、火砕サージが山麓へ流下した。虻田町洞爺湖温泉~壮瞥町にかけては、この噴火による堆積物の厚さは3m以上に達する。軽石は遠く十勝平野にまで達した。山頂には直径1.5kmのカルデラが形成され、小有珠溶岩ドームもこのときに形成された可能性がある。[『2000年有珠山噴火災害・復興記録』北海道(2003/3),p.2]
◆古文書によれば、寛文3年(1663年)、有珠山では旧暦7月11日に地震が頻発し始め、14日早朝から噴火がおこった。15日は地震・噴火ともに激しく、降灰により山麓の民家が焼失し、逃げ遅れた住民5名が死亡した。海上は岸から約5km沖まで降下物が厚く浮遊して陸のようになったという。噴煙柱は津軽地方からも見え、空振は盛岡や庄内地方まで感ぜられた。噴火は旧暦7月末までつづいた。
この噴火で、発泡のよい流紋岩質の降下軽石が東方に堆積した。この堆積物はUs-b降下軽石と呼ばれ、体積約2km3に及ぶが、上述の記録によればわずか2日以内に噴出したものである。堆積物の調査によると、軽石噴火のあと水蒸気爆発が続発し、多量の火山灰が放出し、小規模な火砕サージが山麓に何回も流下している。これら一連の堆積物(Us-b1~b6火山灰)は層厚が山麓で1~3m、山腹で数十mに達する。記録にはないが、この活動の最後、あるいは後述の1769年の活動の最後に、小有珠溶岩円頂丘(フシコヌプリ、古山の意)が生じたと思われる。[門村浩・岡田弘・新谷融『有珠山~その変動と災害~』北海道大学図書刊行会(1988/6),p.228~229]
◆有史以来、初めての噴火は山頂部で発生した。有珠山の第二活動期の始まりである。旧暦7月11日から地震が頻発し、14日には噴火が始まった。15日には地震・噴火ともに激しく、火山雷も伴ない、降灰や噴出物は6.5億トンにも達したとされる。この噴出物量は、昭和52年噴火の約20倍と推定され、かなりの規模の噴火であったようである。この噴火は7月末まで続いたという。そして、数千年という気の遠くなるような期間にわたって蓄積されたエネルギーの噴出は、岸から南西海上約5km沖合まで降下物が厚く浮遊して陸のようになったとされている。また、有珠山の本体は二つに裂け、噴煙柱は津軽地方からも見え、空震(震動)は盛岡および庄内地方まで感じられたという。噴火時の降灰により、家屋が埋没・焼失して、住民5名が死亡したと古記録には残っている。
この噴火活動で、18.5億立方メートルにおよぶ流紋岩質の降下軽石が東方に堆積した。軽石噴火に引き続き、火山岩塊・火山灰の放出が繰り返され、山麓へ火砕サージが何回も流下した。これら一連の堆積物の層厚は、山麓で1~3m、山腹では数10mに達し、大小の岩塊が混ざっている。記録には残っていないが、この時の噴火の最後あたりか、次の明和噴火の最後のあたりかに、小有珠溶岩ドーム(“フシコヌプリ”古山の意)が形成されたと推測されている。[小田清「北海道・有珠山噴火の歴史と周辺地域の概要」『開発論集 第71号』北海学園大学開発研究所(2003/3),p.3-5]

所在地 〒100-8914 東京都千代田区永田町1-6-1 電話番号 03-5253-2111(大代表)
内閣府政策統括官(防災担当)

Copyright 2017 Disaster Management, Cabinet Office.