【区分】
第1期 三宅島の概要
1-2. 1983年噴火災害とその後の対応
1. 1983年(昭和58年)噴火の経緯
【教訓情報】
02.昭和58年の噴火被害総額は255億円余に達したが、死傷者・行方不明者は全くなかった。
【文献】
◆噴火の発生は、昭和58年10月3日15時23分頃と推定されている。三宅島測候所による最初の噴煙観測は同日15時33分であり、噴火活動は翌4日未明まで続いた。
噴火地域は、雄山南西部の山腹に生じた割れ目で、雄山中腹の村営牧場から島南端の新鼻に達する約4.5㎞の地域である。この割れ目には90個以上の火口が並び、100m以上の高さに灼熱の溶岩を噴き上げ、火のカーテンを形成した。更に、島南端の新澪池・新鼻付近ではマグマ水蒸気爆発が発生した。なお、最初の噴火点は雄山南西部中腹の通称「二男山」付近である。
溶岩流は、山腹の火口群から流出し三本に分かれて山肌を焼きながら山を下り、噴火発生の約2時間後にはそのうちの一本が島最大の集落のある阿古地区を襲い、同集落を埋没潰滅させるという悲劇を生んだ。噴出溶岩量は、約700万m3(丸ビル容積の約27倍)である。
黒い噴煙は、高度約1万mに達し、西風にのって大量の火山灰や火山礫を島の南東部一帯に降下させた。降り積もった火山灰礫の厚さは、数㎝~1mに及び、坪田の集落では最低でも12㎝となっている。このため、空港の閉鎖、道路の不通、農林水産物の被害等が生じ、人々の生活に大きな影響を与えた。降下噴出物の量は、約600万m3(丸ビル容積の約23倍)である。
地震は、噴火発生の日から4日間で震度5を1回含む有感地震が99回発生した。
この結果、被害総額は255億円余に達したが、これは三宅村予算(昭和58年度普通会計当初予算18億9,451万円余)の約13.5倍に当たり、島の経済にとって致命的打撃となった。唯一、不幸中の幸は死傷者・行方不明者が全く無かったことである。[『記録 昭和58年三宅島噴火災害』東京都(1985/9),p.87-89]