災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成19年3月
1990-1995 雲仙普賢岳噴火
報告書の概要
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はじめに
1990(平成2)年11月から噴火活動を再開した雲仙普賢岳は活発な活動を続け、1991(平成3)年6月3日、噴火開始後最大規模の火砕流が発生し、死者・行方不明者43人の被害をもたらした。噴火活動は長期化し、土石流や火砕流等により家屋、道路、農地等に甚大な被害をもたらした。
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第1章 雲仙普賢岳の噴火歴と1990−1995の噴火
有史以後、雲仙普賢岳は3回噴火しており、特に寛政4(1792)年噴火では北東部の眉山が崩壊し岩屑が有明海に流出、津波が対岸にも押し寄せ約15,000人の犠牲者を出した。
1991年6月3日、火砕流が市街地方面へ流下し、死者・行方不明者43人の被害を起こした。これを受け、人が住む地域で初めて災害対策基本法に基づく警戒区域が設定された。 -
第2章 土砂災害対策
土石流による被害を最小限に抑えるため、警戒区域が設定されている地域においても土砂災害対策工事を施工する必要性に迫られたが、作業員の安全確保が最重要課題とされ、無人の機械による除石工事等も実施された。
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第3章 危機管理、情報伝達及び報道
災害対策基本法に基づく避難勧告や警戒区域の設定は市町村長の権限であるが、住民が多く居住する地域への区域設定の決定にあたって、多くの関係機関による調整が行われた。また、新聞、テレビ各社による報道が過熱し、避難勧告地域での撮影が続けられたため、6月3日の火砕流によりマスコミや報道関係者の警戒にあたっていた警察・消防関係者から犠牲者が出た。
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第4章 被災者対策と生活再建
災害の長期化により従来の救済措置では対応できない部分への支援措置が拡充され、21分野100項目の支援が実施された。また、多額の義援金が寄せられ義援金配分委員会により多様な被災状況に応じた配分が行われた。被災者の避難は1991年に始まり、その後、応急仮設住宅や公営住宅の建設、恒久的な住宅地の造成が行われ、最初に住宅が再建されたのは1993年であった。
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第5章 復興振興計画と都市施設の復旧
島原市及び深江町は、被災者生活再建及び地域の活性化等を平行して実施するため、被災中から復興計画の策定を行った。被災地の農作物被害のみならず、島原半島全域にわたる観光客減少など、影響が大きくなったことから、経済的な復興と火山を活用した地域振興を図るため、長崎県により島原半島復興振興計画が策定された。
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第6章 教訓
・マスコミから犠牲者を出し、またその後の撤退騒ぎ等、取材者の安全確保や災害報道のあり方が課題となった。
・避難所生活が長期にわたり、心身両面の健康に配慮した避難前のコミュニティでの集団生活の実現や、災害対策業務にあたる自治体職員の労務管理も課題となった。
・火山に伴う土砂災害対策工事等に加え、ソフト対策と一体となった被害の未然防止活動が重要であることを踏まえ、緊急減災対策事業が創設され、主要5火山で検討が開始された。 -
<広報「ぼうさい」>
シリーズ「過去の災害に学ぶ」(第16回): 広報「ぼうさい」 (No.43)2008年1月号, 18-19 (PDF形式:767.4KB)
ページ
報告書(PDF)
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表 紙
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口 絵
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目 次
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はじめに
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第1章 雲仙普賢岳の噴火暦と1990-1995の噴火
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第2章 土砂災害対策
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第3章 危機管理、情報伝達及び報道
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第4章 被災者対策と生活再建
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第5章 復興振興計画と都市施設の復旧
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第6章 教訓
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コラム
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資料編
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災害概略シート
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謝 辞
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奥 付