報告書(1960 チリ地震津波)

災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 
1960 チリ地震津波

 報告書の概要

第1章 チリ地震津波とは何であったのか

 昭和35年5月24日早朝来襲したチリ津波は、北海道から沖縄までの太平洋沿岸各地に被害を与えた。体感する地震がなく、気象庁の対応も遅れ、完全な不意打ちであった。南米沖で発生した遠地津波は、1586年以降19例もあったのだが、その認識が不足していた。
 北海道・青森・岩手・宮城・三重だけでも358億円の被害となった。一般会計総額1兆6千億円、国土保全費520億円の頃である。前年の伊勢湾台風(被害額1,365億円)に引き続く大災害であり、昭和三十五年六月のチリ地震津波による災害を受けた地域における津波対策事業に関する特別措置法が6月17日衆議院可決、20日参議院可決とすぐさま成立した。
 津波高が5〜6mと構造物で対処できる程度のものであったことから、構造物主体の津波対策が実行されてきた。10mを超える津波への総合的津波対策の策定には、1993年の北海道南西沖地震津波まで待たねばならない。

第2章 チリ津波の発生から日本到達まで

 南米プレートの下にナスカプレートが沈み込むチリ海溝で、Mw=9.5の観測史上最大の地震が発生、津波は15時間後にハワイ、23時間後に日本に到達した。
 遠地津波では無視できない波数分散効果、島・海山・海膨による短周期成分の散乱効果、海嶺などによる捕捉・導波作用のもとに、日本へ襲来した。発生源が日本の対極にある事とハワイ諸島付近の海底地形によるレンズ効果とが、日本への津波集中をもたらした。
 現在の数値計算技術では、長周期成分の卓越するチリ津波の再現はかなり精度良く出来るが、その一方で当時話題となった小さい前駆波は未だ説明されていない。

第3章 日本沿岸でのチリ津波

 近地津波に比べ、周期が長かった。東北日本では40分、80分のところにピークがあり、西南日本では40分であった。波高は、北海道・東北地方で2m程度であったが場所によっては4〜6m、関東・東海・近畿・四国・九州で1m位だが場所により2m程度、沖縄では孤立してではあるが4mの所があった。
 東北・沖縄地方で4m以上の場所が生じた原因として、太平洋伝播途中での屈折による集中とされている。第二の特徴として、長い湾が周期の長いチリ津波と共鳴し、湾奥ほど津波が高くなった事があげられる。共鳴しない湾でも、津波による速く複雑な流れが生じ、養殖水産業に影響した。第三の特徴は、大きな岬の背後へも津波が回り込んだことである。
 沿岸近くでの津波は「海が膨れ上がる]と表現され、「先端が段になる」、「白波が立った」と云う所は少ない。ただ、川に入ると明確な波状段波になった。

第4章 津波開始時の人間行動

 早朝から出漁準備などで浜に人が居り、津波警報が出なかったにも関らず、海を良く知る人の判断で死者を出さなかった例が各地に見られた。その一方で、近地津波では被害を受けにくい長い湾の奥では、安全との思い込みが被害につながった。大船渡湾奥がその例である。ここは、急速に発展した商業地域で転入者が多く、津波未体験であった。夜間営業のため、平常から朝の起床が遅かった。日頃から津波避難訓練に消極的で、避難信号のサイレンの意味が判らなかった。これが死者多数につながった。
 周期の長い津波であったため、引潮時の貝・魚拾いが各地で見られ、時として死につながった。

第5章 気象庁の対応

 我が国での津波予報は1941年に三陸地方を対象として始まり、1952年に気象官署業務規定が定められ法制化されたが、近地津波だけが災害をもたらすものと認識されていた。
4時59分の予報(仙台管区気象台発)が最も早かったが、津波到達後であった。津波の初動時刻までに津波警報が間に合った地域は皆無であった。
 チリ津波は津波予報体制に根本的な変革をもたらすものとなった。この後、国際的な連携が加速された。
 その後現在に至るまでの、津波予報の精度向上、迅速化についても記述してある。

第6章 被害の実態

 人命、家屋、漁業(漁船・漁具・水産施設)、農業(農業・畜産業・防潮林)、交通(橋梁・鉄道)、ライフライン(上水道・電力・電話・郵便)、公共土木施設(港湾施設・海岸堤防・護岸)、商工業の順に、被害形態や規模、原因、災害直後の対応などをとりまとめた。
 過去の津波時と同様、コンクリート造建築物の耐津波性が確認された。水産業では各種筏の流出損壊が目立った。石油や青酸カリの流出が発生したが、大事に至らなかった。沿岸道路は各所で破壊され、交通網は寸断された。流出木材・筏・漁船・家屋が路上に堆積し、その除去には機械力が効をなさず、殆んど人力に頼らざるをえなかった。
 発電所の初の浸水被害、上水道の破壊など、都市化しつつある沿岸地帯の弱点が現れた。

第7章 市町村・県・国の緊急対策

 市町村の出足は早かったものの、全体像の把握には時間がかかった。調査用紙が不足し、罹災者避難先が不明であったからである。
 電話不通のため、市町村と県の連絡が旨く行かず、その後の救援活動に支障が生じた。
 災害救助隊組織が確立しておらず、訓練不足が障害となった。こうした問題点が第2節3にまとめられている。
 意外な問題点として記録不足があり、救護の引継ぎなどで大きな障害となった。
 災害対策特別立法は、日米安全保障条約改定に関る騒然とした世情の中にもかかわらず、極めて速やかに成立した。

第8章 構造物主体の津波対策の確立とその後

 国・県の主導と財政措置のもとに行われる近代的な津波対策は、昭和三陸大津波(1933年)に始まった。これが第1期である。経験的な総合対策であり、主流は高地移転であった。防潮堤建設は5箇所のみで採用された。津波予報は昭和16年に始まった。
 その第2期が、チリ津波によって始まる。沿岸での津波高がせいぜい5〜6mであったから、構造物主体の対策となった。世界初の津波防波堤が大船渡湾口に建造された。
 10mを越える津波への対処が考えられる中、1993年の北海道南西沖地震での経験から、総合的津波対策が進むことになるのが、第3期である。1997年以降、防災構造物、津波に強いまちづくり、防災体制の三つを基本とするようになった。

第9章 チリ津波とその後の対策に関する教訓

 チリ津波は、近地津波を対象とした従来の知識を覆すものであった。その複雑な動きは、現在でも解明されて居ない事がある。中でも、津波による流れは精度良く推定されるに至って居ない。
 沿岸地帯が近代都市化する直前の津波であったが、都市のもろさが諸所に現れた。下水道や排水溝からの思いもしない浸水、上水道・電話網・海底敷設管の破壊、発電所の浸水被害などである。大事に至らなかったが、石油に関連する火事も発生した。
 貯木場からの木材流出が大問題となったが、その後も対策は進んでいない。松冨の調べによると、積極的に対策を講じて居る港湾は全国で僅か5港湾しかないのが現状である。
 津波に対する土地利用規制は、北海道浜中町、宮城県志津川町(現南三陸町)でしか実現しなかった。
 構造物による対策は、チリ津波に対しては効果があった反面、防潮堤があるが故に湛水が長期化した例が発生した。
 救援活動を支える救援道路の破壊、漂流物による交通障害が問題となった。海から近づく場合に使われる港湾で、津波による流れが原因の障害が起こった。岸壁の倒壊、あるいは港湾での堆積による水深変化、漂流物による航行障害である。
 以上のように、生活に便利なライフラインの被害が伺い知れる災害が発生した。このときの被災状況に学び、やや想像力を働かせれば、現在の進化した沿岸地帯で生じ得る災害を推測するための良い手掛かりがあちこちに見られる。

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内閣府政策統括官(防災担当)

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