28.車で避難して遭難した話(奥尻高等学校生徒T・Hさんの体験文)。


【区分】
第3期 地震被害発生期
3-4. 被災者の行動
1. 避難行動
【教訓情報】
28.車で避難して遭難した話(奥尻高等学校生徒T・Hさんの体験文)。
【文献】
◆この度の北海道南西沖地震でこの奥尻島青苗で多数の死者と被害を受けた人がいます。私もその被災者の一人です。今回の地震は2回目で1回目の中部地震とは全然違っていて私自身、今こうして生きているのが不思議でたまりません。その地震のあった7月12日、いつもの通りの生活を送っていました。私が母より早くアルバイトから帰ってきて寝ようかどうかという時、地震がおきました。次第に地震の揺れは強くなり、電気は消え、その時一緒の家で暮らしている祖父母の部屋へと走りました。その地震の揺れは強く長い時間のように感じました。揺れがおさまってから家から出ようと思って、私は必死に祖父母を起こしました。お母さんは外から大きな声で叫んではいるげれど、戸が壊れて3人が脱出するのにかなりの時間が掛かりました。その日お父さんはいか釣り漁に出ていたので車が5台もあっても1台も動かすことができませんでした。その時私の頭をよぎった事が祖父母だけでも、どこかの車に乗せてもらおうと思いました。その時です。私のいとこの人の車がバックして来ました。私とお母さんは、祖父母を連れて走りました。そしたらその家のお母さんが車から降りてきてくれて、祖父母と合わせて5人を乗せた車はものすごいスピードで走り出しました。それが最後でした。私とお母さんといとこのお母さんは、もうだめだと思いながらも必死に高台を目指して走りました。そして、大きい坂に差しかかりました。その時です。津波の音を耳にしました。それは今までに聞いたことのないような音でした。坂からは「津波だ! 逃げろ!」という絶叫とともにたくさんの人が坂から降りてきました。私たちは進行方向を変え、今思えばどこをどうきたのかははっきり覚えていません。そしてやっとの事で、一番高い所の団地に来ました。その時もう家はありませんでした。同時に火災が発生しました。私は見た事はないげど第二次世界大戦にタイムスリップしたような感じでした。それで、いとこのお母さんと5人乗りの車を探しました。次の日の朝まで歩きとおしで、自分の家のあった所にいきました。その時一度も私たちの前では涙を見せたことのないお父さんが泣いて、私たちを呼びました。そしてその災害から2日目が経ち、祖父が記念碑の浜に打ちあげられていました。私は10年分も20年分もの涙を流したような気がします。2週間ぐらいで5人全ての遺体はあがりました。私にとっても、家族にとっても祖父母は偉大すぎました。これから私はこの二百数十人と家屋や船を一のみにした津波が憎たらしく、生涯忘れることはないでしょう。今、この余震が続く中でこの事が夢だったらどれくらい幸せだろうと思います。[『北海道南西沖地震記録集』北海道奥尻高等学校(1994/2),p.14-15]

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