パネルディスカッション(1)

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パネルディスカッション
 「若者たちの防災ボランティア活動から学ぶ」
itou_ps 伊藤  明日でちょうど「阪神・淡路大震災」から4年になるということですが、死者の数が、関連死も含めますと6,430人。関東大震災以降では最大の死者を出した地震災害だったわけなのですね。
 避難をしていた方々は、ピーク時には、31万 6,000人と言われております。避難所にそれだけの方が、身を寄せていたのですね。
 それからちょうど4年たちました。ところが、世の中の動きが速いものですから、4年もたちますとあの記憶がどんどん風化していっているというのが現状です。
 確かに新しいニュースが次々と出てくるものですから、いわばニュースがニュースを消していくという世の中だと言ってもよいかと思います。そういう意味では意識の風化は大変残念なことなのですが、現実にいまでも仮設住宅に住んでおられる方が、この1月1日の調べでは5,841世帯と聞いております。
 昨年、貝原兵庫県知事にお会いしたときに、知事がこういうことをおっしゃっていたのを覚えています。「復旧は8割できました。しかし復興はまだ2割です」。去年の春頃だったと思います。
 確かに、いま神戸へ行ってみると、ネオンの灯もともりましたし、町の灯は本当にともってはきたと思うのですが、人々の心の灯はいまだにともっていないのではないかと思っています。そういうことを考えると、震災はまだ終わっていないんだと印象を持つ次第なのです。
 今日のテーマであるボランティアですね。この震災のあとで全国から延べ150万人のボランティアが駆けつけたと言われておりますけれども、そのうちのおよそ40%が学生だったと聞いております。
 このボランティア活動によって、壊滅状態になった人々の社会がかなり救われたのではないか。その社会を救って立ち直らせたのは、やはり人々の心の温かさだったのではないのかと思います。
 振り返ってみると、この大震災が起きるまで、日本ではどうもボランティア活動というものが定着しないのではないかと言われていたのを私も記憶していますけれども、そういった意味でも、ボランティアという言葉が急浮上して、漠然としてではあるけれども、ボランティアの形が見えてきたというのがこの阪神・淡路大震災だったと思います。
 その後、皆さんご存じのように、2年前のナホトカ号の重油流出事故であるとか、昨年の、関東北部から東北南部にかけての大水害とか、こういったところでボランティアが活躍することによって、更にボランティアの重要性というものが確認されたと思います。
 こうした活動を通じて、やはりボランティア活動への評価が生まれてきましたけれども、その一方では問題点や反省点も浮き彫りになってきたと思います。 今日のこのパネルディスカッションは、「(ボランティア活動の中核を占めている)若者たちの活動から何を学ぶか」をテーマにして、これから5人のパネリストの皆さんとディスカッションを進めていきたいと思います。 進め方としては、最初にそれぞれのパネリストの皆さんから、自己紹介を兼ねまして、これまでのボランティア活動について感じたこととか、あるいは実際にボランティア活動に参加しての感想などを第1巡目でお伺いしたい。 それから2巡目に、これまでの活動をバネにして、今後の防災ボランティア活動をどのように組織化していくか、あるいはそれをどのように発展させていくか、そうした方向性についても話し合っていきたいと思います。
 それから、皆さんに申し上げておきますが、最後の方で、会場の皆さんからご質問、あるいはご意見も伺いたいと思いますので、ぜひ活発なご意見を伺えればと思っております。
 それでは最初に、笠原さんからお願いしましょう。

kasahara_ps 笠原  皆さんこんにちは。
 私は、大阪府の保健所などでおよそ10年間歯科衛生士として、保健・医療の分野で働いたのちに社会福祉を学びました。常に地域の人たちと接し、やりがいのあるポジションで働いていたにもかかわらず、新たなスタートを決心させたのは、福祉施設でのボランティア活動を通して経験した、やはり福祉への抑えきれない思いというものでした。ボランティア活動は、私の人生を豊かにしてくれました。
 現在は、大阪府の東部にあります柏原市の関西医療技術専門学校で、介護福祉士、理学療法士、作業療法士といった方たちの養成に携わっております。
 まず最初に、私が人生のライフステージの転換を決めた、福祉への抑えきれない思いについて少しお話しさせていただきます。
 初めて「ボランティアをしようかな」と思って、あるグループにうかがったときに、その担当の方が「あなたはボランティア活動をすることで、あなた自身何を期待していますか」と尋ねられたのです。
 「ええっ」と驚きました。当時、私は、ボランティア活動というのは、無償の奉仕行為であると思っていました。だから、何を期待されてますかと質問されても、何か得てもいいのだろうかと、反対にピンときませんでした。自分を犠牲にするというからボランティアなのに、活動から何かを得るとはどういうことなんだろうっていうように逆に考えさせられてしまったのです。
 それで、ボランティアを行うなかで同じ仲間の方たちに「なぜボランティアしているんですか」って何度も聞きました。そういう人たちが「気持ちいいから」と、まずおっしゃるんです。で、「何で気持ちいいのかなあ」って、もう少ししつこく聞きますと、「得るものがあるからよ」って教えてくれたのです。
 もちろん、ここで言う「得るもの」っていうのは、金銭の報酬とか名声を得たりするっていうものではありません。充実感とか達成感、「やったー」っていう、気分を感じたい。それから、社会の役に立っているっていうような満足感。社会に目を向けている自分っていうものを表現したい。
 また、友人の輪を広げて社交の機会にしたい気持ち。中・高年の方でしたら、健康を維持したいというようないろいろな得るものを求めて、気持ちよく活動をされていたのが私にとっては非常に大きな衝撃でした。「ボランティアっていうのは案外、奥が深いものなんだなあ」って、そのとき感じました。
 例えば、障害者とか高齢者、車いすに乗っていらっしゃる人というのは、一括りとしては漠然とイメージ持ってますよね。ですけども、そういった方たちというのは私とちょっと違う人たち、距離を置いた方というように感じていました。
 ですが、ボランティア活動をすることによって一人ひとりの名前を持った、笠原さん、西川さん、伊藤さんというように名前を持った、個性を持った人間として接しました。
 そして、改めて自分自身というものを振り返って、私の人生、生活、家族、そういったものを考え、それから、ボランティアの仲間と語り合う機会を持って、徐々に私自身の人間っていうか、何か幅が広がってきたように感じて、それに伴って何か心のスペースというのですか、そういったものを広げていったように思います。
 今日のテーマにあります「若者たちの防災ボランティア活動から学ぶ」ですが、大学院生のとき阪神・淡路大震災におけるボランティア活動に参加しました。そのとき、災害時のボランティア活動はボランティア初心者にすごく適しているなって思いました。
 例えば、初期では救援物資の仕分け、ゆうパックを毎日何百個と運びました。それから、炊き出し、水くみなどです。中期では、話し相手、子どもたちと一緒に遊んだり、生活支援など。それから、後期になりますと引っ越しが始まりますので、引っ越しのお手伝いをしたりとか、支援運動などが思い浮かびます。これらの活動が、連日訪れるボランティアを排除せず、受け入れられたのだというように思います。
 初期の被災者のニーズは共通点が多くて、長期になるにつれて、一人ひとりの困り方というのが違ってきますので、初心者ではちょっと対応がしんどいかなっていうように思います。
 ですから、私がボランティアで震災のときに参加させていただいたということは非常にタイムリーであり、私自身の能力に適したものであったように思います。 いま、専門学校の教員として学生に接して、若者たちのボランティア活動ということを意識して考えてみますと、やはり阪神・淡路大震災の年はボランティアの元年だなっていうように感じます。1月17日、その日を境に、何か変わったようです。 震災以前の学生たちも、私たちもそうですけども、他人のために自ら進んで手を差し伸べるというのは、ちょっと気恥ずかしくて、何かダサいみたいな感じがしました。震災以後はその「ためらい」というものが消えて、先ほど高校生の方が報告してくださいましたけれども、多くの人々が誰からも強いられることなく、被災地へ向かって、自分に素直になったのではないでしょうか。この、思いがストレートに飛び込めるような、自由な雰囲気がなければならないと思います。要は、どんな思いも受け止めて、可能な限り排除しないことだというように考えます。
 高校生の若い人たちの、そういった思いというのを受け止められるような専門学校での教員でありたいなと思っております。

伊藤   ありがとうございました。
 いま、防災ボランティアの、例えば震災があったときのステージについてお話をなさいましたけれども、私はだいたい大きく分けて4つのステージがあるのではないかと思います。
 一つは、地震が発生したあと、これはだいたい1週間ぐらいまでのいわば緊急対応期ですね。その次が2、3か月ぐらいまでの応急復旧のステージ。 そして次は、震災が起きてから半年ぐらいまでの短期復旧期と言ってもよいと思います。そして最後が、現在、既にその状態になっているわけですが、長期の復興期。 それぞれのステージについて、ボランティアの果たすべき役割というのは異なっているのではないかと思います。
 それでは次に、神戸大学の室崎さんにお願いいたします。

murosaki_ps 室崎  こんにちは。神戸大学の室崎でございます。
 いま、伊藤さんがステージの話をされましたので、それを受けて私にとっての防災ボランティアの関わりの3つのステージについて少しお話をさせていただいて、自己紹介にかえたいと思います。
 最初のステージは、研究の対象としての防災ボランティア。いまとなってはこういう言葉は非常に恥かしくて言える言葉ではないのですけれども。私はいままで30年ずっと防災の研究をしてまいりました。災害が起きるたびに被災地に伺わせていただいて、いろいろなことを勉強させていただくんですけど、どこへ行ってもいろんな形でのボランティアの方がおられて、そういう人たちがやっぱり被災地の復興というのに大きな力を果たしているということを何度も何度も見てきました。
 日本も大昔の、例えば、伊勢湾台風のときにも多くの中学生や高校生が被災地の復旧に力を出してるわけですね。そのとき問題になったのは、高校生に亡くなられた遺体の処理のお手伝いをさせてよいのかどうかってことが議論になったぐらい、高校生が非常に活躍しました。
 そういう意味で言うと、先ほどの小山内先生のお話で、防災ボランティアは日本人の心にあるのだと言われたことはまさにその通りだと思います。別に阪神・淡路大震災が最初ではないとは思うのです。ただ、日本の場合は、防災ボランティアの環境が整備されていなかった。
 外国に行くともっとしっかりとした組織だった非常に効果的なボランティア活動がある。それに比べると、阪神・淡路大震災以前の日本のボランティアはやや散発的という印象を受けていました。つまり、今までは心はあるのだけれども、そういうボランティアの心を活かせる環境が日本に育っていない。例えば、保険の問題であるとか、身分保障の問題であるとか、あるいはどこにどういう形で行ったらよいのかというトレーニングの場であるとか、そういうものが用意されていないために、何とかしたいと思いながら受け止めてもらえる場所がなかったわけですね。
 だから、阪神・淡路大震災というのは、なぜ元年かと言われると、そういう場ができた。これからはこういうことをやろうと思えば、どこへ行っても社会的にもいろいろなところで受け入れられるような条件が生まれたという意味で、日本でも元年だと言っているのです。といっても僕はあまり元年とこだわるのは嫌で、「いや日本だって昔からやってんだ」と言いたい。
 例えば、天理教の「ひのきしん隊」というのは大昔から大活躍をされています。曹洞宗の方々も非常に大きな活躍をされています。当然、日赤の方は大昔から、特に大阪は日赤の奉仕団っていうのは大昔から、まさにボランティアでなさっていますから、大阪に防災ボランティアが過去はなかったなんてそんなことはとても言えないわけですね。
 ところで、このボランティアの力をどうやって防災対策に活かしていこうかというようにして研究を始めたのが、だいたいこれが20数年前でございます。それが一つ目の関わり合い方。そういう意味で、研究者としては防災ボランティアをずっと見てきたということであります。
 ところが阪神・淡路大震災以降、私のシチュエーションが変わりました。第2ステージに入るわけです。これは仲間としての防災ボランティアというように、防災ボランティアを見るようになりました。
 そういうように頭を切り替えさせてくれたのは、言うまでもなく私の周囲にいる学生であります。いわゆる若者であります。ちょっとやや老けた若者というように言った方がよいかもしれませんけれども。
 震災のとき、学生と私の間ではいくつもエポックが起きるのですけれども、私はある理由があって震災の当日は大学に行くことができませんで、2日目に大阪から、途中までタクシーを使い、西宮からは歩いて大学に戻りました。
 多くの学生が虚脱状態というか、当然まだ生き埋めになってる学生もおりましたから、学生みんなの安否確認をさせるとか、いろいろ最初はやってたんですけど、学生が虚脱状態なんです。顔がもう真っ黒でボーッとして、遠くを見て、もう何かこいつら本当に生きてるのかなあっていうような学生。それが教室だとか、製図室とかで、ごろごろごろごろしていました。
 この学生の顔を見て、ああこれはまずいと。早くこの学生をご家族のもとに帰さないといけないということで、学生一人ひとり、実家はどこでどうだと。それで、飛行機の手配とか、伊丹まで歩けと。歩いて行けば飛行機で帰れるとか、ずうっとそういう手配をして、明日皆帰れよというようにして、その中に何人か帰る学生がいました。 たまたまその日の晩、あるテレビ、もう真夜中でございます、深夜でございますけど、テレビに出演する機会がございまして、そのときに、こういう大災害になるとやはりボランティアの力が必要なので、史上最大のボランティア作戦をぜひ展開してほしいと、心ある仲間はぜひ被災地にすぐ来てくださいという放送をしたんです。その放送を、私が帰れといった学生がほとんど見ていまして、次の日大学へ行きますとみんな帰っていないのです。「先生、一緒にやらせてください」というように彼らは言うわけですね。
 当然、彼らの下宿は壊れていまして、中には友だち、現に私の教え子にも1人亡くなったのがいるのですけど、みんなそういう中で何かすることがあったらやらせてくださいということで。
 じゃあ、これは私としては、責任は記録を残すことなので、まず建物を一つひとつどういうように壊れたかきちっと記録を取りなさい。それから、どうして燃えていったのかという記録を取りなさい。それから、避難所にいる人はどういう気持ちを持っているか全部調べないといけない。じゃあ、君たちのやりたいところからきちっと調べなさいということで。
 そうすると、どんどんどんどん学生が増えてまいります。調査をやらせると、学生の目の色が、いわゆる死んでたような目をした学生がいきいきとして、「働く」っておかしいですけど、彼らとして一生懸命自分の仕事をやり始めるわけですね。
 その姿を見たときに非常に大きな感動を覚えて、じゃあこの学生たちとわれわれがやるべきことをやっていこうというように進んでいった。
 それ以外にたくさんのエポックがあるのですけれど、その後、被災地で多くの若者と直接話をしたり、一緒に体を動かすということをすることもできました。
 これも個人的なことになるかもしれませんけれど、我々は被災地の50万棟という建物すべてについて、壊れた状況のデータを作ることができました。それには1,000人の全国から駆けつけてくれた学生のボランティアの協力があって、そういう記録を作ることができました。
 いま、6,000人の亡くなられた方がどうして亡くなったかという、遺族の聞き取り調査をやっております。これはまだ6,000分の50なので、これはちょっと威張れないので、あと10年目ぐらいに「やっと1,500人ぐらいできまして」とご報告したいのですけど。
 ただこれも大変な調査です。学生が全部3人一組で行って3時間。この前も広島に行って3時間遺族の話を聞いて帰ってきてくれるのですけれども、彼らは黙々とやって、きちっと記録をする。
 そういう形で、ただ学生とか、そういう若者の姿を見ているときに、やっぱり人間というのはこうなのだなと、人間の本当の姿を見る思い。やっぱり、こういう人たちと我々と一緒に力を合わせてやっていくということがボランティアなのかなというように思いました。それが、仲間としてのボランティアということであります。
 さて、3番目の段階は、仲間ではいけないのではないかと最近思うようになりました。それは、自分自身がやはりボランティアにならないといけない。
 これが難しいのです、これは専門家としての。専門ボランティアって、お医者さんは医療ボランティアだとか、それから建築士の人は建築の診断ボランティアであるとか、そのほか皆それぞれ専門色を活かしたボランティア。研究者というのはいったい何なのかということになってまいります。
 これが、要するに代償を求めないということはなかなか難しいわけですね。だから、論文にしない研究をすれば、ひょっとしたらこれはボランティアかもしれない。いまその道を探ろうと思っています。いま、遺族の方の調査をしていますけれど、これはすべての学生に言いましたけれど、「これについては一切論文にするな」というように言っております。
 これは単に記録を残す。100年後に記録を残す、それだけでよいのではないかというように言っているのですけれども、研究者それぞれの立場、個人としてのボランティアというものの生き方というのも見つける。
 そうすると少しは、これは結論なんです。少しは、本当のボランティアの人の気持ちがわかるようになったということであります。

伊藤  ありがとうございました。
 確かに、阪神・淡路大震災の年が「ボランティア元年」と言われたぐらい、急速にボランティア活動がクローズアップされたのですが、いま室崎さんが言われたように、実は昔からあったのですね。
 昔の地震で一つ思い出したことがあるのですけれども、「安政の江戸地震」というのがありました。1855年(安政2年)なのですけれども、江戸の直下で起きた地震で、およそ1万人ぐらいの犠牲者が出たという地震です。
 この地震のことを記述したある古文書にこういうことが書いてありました。
 地震のあと市民が復旧にあたるわけですが、日頃、遊興怠惰な者ども、つまり普段から遊んで怠けてばっかりいるような若者、いまの大学生にもよくいますけれども、そういう連中が、例えば、大工の手伝いをしたり、「あるは鉢持ちなどして」などと書いてある(鉢持ちって、たぶん食料を配るような役割なんですね)。そして、一番最後のところに「真の心に返った」ということが書いてあるのですね。
 だから、そういうことを考えると、やはりこの震災のような大きな災害が起きると、何かそういう心を取り戻すのではないのかということで江戸地震を思い起こしました。一言ご紹介したのですが、それでは、その次は西川さんにお願いいたします。

nishikawa_ps 西川  私は愛知県豊川市からまいりました、日本赤十字社防災ボランティアリーダーの西川といいます。よろしくお願いいたします。
 私はいまから20数年前、職場の労働安全という問題の中で、赤十字の救急法講習会というものを知りました。そこで、職場において怪我をしたときにどうしたらよいか。対応の仕方を学びました。
 その中で、いや、これは大変なことだなと。これをこのまま講習会受けただけで終わってしまっては何もならない。何か続けようということがきっかけで、赤十字の中に奉仕団活動というのがあるのを知りました。そして、この奉仕団に自分が所属して、何らかの活動を続けていれば、自分もこの救急法を忘れないでできるのではないかなという思いで、当時は赤十字の奉仕団活動をするちょっと変わった人だなと。いわゆるいまのようにボランティアが当たり前として定着しているときではなくて、何か変わったことをやってる人だの、目立つねというようなことでありました。
 そういった活動をしている中で、自分もいろいろな人の目に触れますので、町内でやっておりますボーイスカウトの指導者になってほしいということで、ボーイスカウトの隊長も15年ほど経験しました。
 そういう活動経過の中で、普段はじゃあ何をやってるのかと言いますと、自分は赤十字の奉仕団に所属しておりまして、平時(災害のないとき)はいわゆる福祉ボランティア、そういったこともやっております。
 私は、いまテーマになっておりますような、災害におけるボランティアと福祉ボランティアとは、基本的にある部分で違うのではないかなというような考え方を持っております。
 赤十字のボランティアに入ったのはなぜかなって言うのも、日本赤十字社というのは、国際赤十字の一員として、人道を具体的にやっている。いわゆる真心から人間として人に手を差し伸べる。困っている人がいれば、すぐ手を差し伸べてあげる。血を流していればすぐ応急手当をしてあげるという、人間として真心から手を差し伸べる、そういう活動を展開しているのが赤十字だと思っております。そういう中で、自分があくまでボランティアとして報いを求めずに、ただ自分の真心からする活動だと思っております。
 その幾つかの活動の中で、若い人たちのふれあいの活動という一端で言えば、毎年5月の連休のあと(5月末頃)に豊橋市に動植物園という大きな公園があるのですけれども、そこで地域の高校生が「1日ボランティアフェスティバル」ということで、地域の障害者の方々の介助を体験するのですね。
 一人の障害者の方に高校生が3名から4名が付き添いとして1日、動植物園のいろいろな催し物を楽しんで体験する。その中で、学校では得られない実地の現場における、本当の意味の介護を学ぶわけですね。 そういう高校生たちが成長していけば、必ずやこのボランティアの根っていうのは、もっともっとよくなるのではないかなというように思うわけです。その活動の中でまたのちほど思うことをいくつか述べますけれども、普段においてはそういう奉仕活動をしております。
 また、阪神・淡路大震災以降、日赤愛知県支部におきましては、災害救護を前提としてやっていますが、われわれボランティアの奉仕団を再度再構築と言いますか、見直しをして、本当の意味で災害復旧、あるいは災害対応に向けてのボランティアコーディネーター、あるいはボランティアの養成、そういう取りまとめのできる体制を作ろうということで、防災ボランティアの取り組みをしております。
 また、阪神・淡路大震災以降、日本赤十字社とは別に、愛知県の行政としての取り組みをちょっと紹介いたしますが、愛知県では全国の自治体に先がけて、阪神・淡路大震災の教訓を活かそうということで、10年継続事業として、ボランティアコーディネーターを1,000名養成するという目標を持って、ボランティアコーディネーターを養成しております。そういう中で、私どもも赤十字のボランティアとしての経験を活かして、そういったコーディネーターの養成のお手伝いをしております。 それから、愛知県の取り組みとして大きなことは、全国に先がけて、いろいろなボランティア組織を取りまとめている9つの団体と、非常災害時におけるボランティアの協定を結びました。
 どんな団体が加盟しているかと言いますと、愛知県の行政を中心として、日本赤十字社愛知県支部、愛知県社会福祉協議会、ボーイスカウト、ガールスカウト、青年団協議会、青少年協会であるとか、国際交流協会、それから阪神・淡路大震災以降できました「震災から学ぶボランティアネットの会」、こういった行政も含めて9つの団体で私どもは協定を結びました。
 これはどういう目的かと言いますと、普段から顔の見える関係づくりをして、いざ災害というときに備えようということで、定期的に会合を開いて関係を深めようというもので、私もこの活動に参加しておりますけれども、これからが活動の始まりです。 愛知県はいままで大きな災害は、伊勢湾台風以来ないということが言われておりますけども、実際には阪神・淡路大震災のようなことがいつ起きてもおかしくない。日本列島全部で、どんなところにいつ起きてもおかしくない態勢にあるという中で、私どもはそういった一ボランティアではありますけれども、災害に向けて阪神・淡路大震災の教訓を活かそうと防災活動に取り組んでおります。

伊藤  ありがとうございました。
 確かに、中部地区は伊勢湾台風以来大きな自然災害はありませんね。しかし、断層は中部から近畿が圧倒的に多いのでありまして、阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震のような地震、局所的ではあるが、激甚な災害をもたらす地震を発生させる活断層というのは、中部地方から近畿地方に多いのです。
 大阪のど真ん中にも上町断層という活断層が走っています。
 こうした活断層というのはいつ動いて、兵庫県南部地震と同じような地震を引き起こすかわからない状況になってるということを、ご記憶願いたいと思います。
 さて、栃木県から山田さんがおいでくださいました。昨年の8月27日に、那珂川の支流の余笹川で大水害が起きまして、これは復旧までにはまだ3年ぐらいかかるのではないかと思われますけれども。
 福島県の南部でも、あれは災害弱者の施設で、土砂災害により死者が出るという悲しいことが起きました。そのあたりの話も含めて山田さんにお願いしたいと思います。

yamada_ps 山田  栃木県からまいりました山田と申します。
 昨年の4月に、県から栃木県社会福祉協議会(県社協)に出向という形になりました。現在、35年目になりますが、ずっと福祉関係の仕事をしてまいりました。若干その間、少年自然の家などで青少年の社会教育の仕事もしてまいりました。 いままで、県の本庁、福祉事務所、知的障害者の施設などに勤務してきましたが、その間、福祉教育の推進とか、ボランティア活動の振興とか、災害救助法を2、3年担当したという経験もあります。
 社協は防災・災害救援に限らず、すべてのボランティア活動を振興するという機能を持っておりますし、またそういう仕掛けをしていかなければならないと、私は思っております。たまたま私は社協に非常に魅力を感じておりまして、ぜひ行ってみたいと思っていたのですが、昨年の4月に事務局長となりました。
 栃木県の集中豪雨ですが、8月の25日あたりから降り出した雨がやみませんで、栃木県の県北の那須岳を中心に大雨が降り、多くの被害を出しました。栃木県は非常に災害が少ない県でしたが、栃木県北部、特に黒磯市、那須町、それから黒羽町、大田原、湯津上という、この辺の町が大きな被害を受けたというわけです。 この地域の降雨量は年間約1,800ミリなんですが、5日間で約1,200ミリを記録したということで、河川の氾濫が起きました。阪神・淡路大震災とはまた違った災害です。
 そういう中で、私ども社協が何ができるかということを考えたわけですが、実は栃木県でも12年ぐらい前に、芳賀郡の茂木町という町がやはり川の氾濫で、町の中心部のほとんどが水没をしたということがございました。
 そのときに、私は県の老人福祉課に勤務しておりましたが、災害救援にあたってのボランティア活動の部分はあまりなかったような気がします。各市町村行政が支援に行くということでございました。私の郷里だったものですから、1週間ほど入って調査などをした経験があります。
 昨年の話にもどしますが、雨が降ってる間は、たぶん警察、消防、あるいは自衛隊が救援活動するだろうし、二次災害防止の対策もあるだろう、私ども民間ができる場面はたぶんそのあとだろうということで、水の引いたあとが、私ども社協やボランティアが出る場面かなというように判断をしました。
 しかし、すべての活動が一挙にはできないはずだから、早い段階から準備しておこうかということで、各市町村やあるいはボランティアに連絡を取り始めて、まずボランティアの登録制を取ることとしたわけです。そういう中で、また、被害状況調査のために、職員を被害の大きい市町村に派遣をいたしました。
 ところが、調査に行った職員が「もう水で動けない」と、途中で避難をするような状況でした。そういう中でも一刻一刻、携帯電話から情報が入りはじめました。携帯電話は非常に有効だったと思っています。そのような中での状況判断でした。 それからもう一つは、マスコミで非常に多くの情報を発信しました。県も災害対策本部を設置したのですが、県の災害対策本部はたぶんボランティアまでは気がつかないであろうし、たぶん、救援物資とかそういう部分で対応をしていくであろう。その意味では、私ども出番があるのだろうということを考えておりました。
 その場合には、多分ボランティアさんがいっぱい来るだろう。阪神・淡路大震災、あるいは三国(ナホトカ号流出油災害)の経験からそう考えました。そのときにドッと来られても地元は困るだろうし、それから調整もできないだろう。ましてやボランティアの宿泊には全然対応できないだろうということを考えまして、ボランティア活動拠点をまず設置しようと考えました。
 また、ボランティア活動拠点は、県社協のある宇都宮市に置いても仕方がないので、現地につくろうということで黒磯市に置きました。それは交通アクセス、高速道路、新幹線、それから那須町、黒羽町、湯津上村に近いということがその理由です。それから、100人程度は会議室で寝られるということがございました。また、黒磯市は一部の地区だけが被害を受けたものですから非常に動きやすいということで、ボランティア活動拠点を設置し、本部を後方支援と前線本部に分けました。私は前線の方で指揮を執ったわけです。
 後方は県社協の総務部長が担当し、いろいろな情報なり、マスコミに情報提供し、それから関係市町村に派遣した県社協職員からの情報をまとめた災害情報ニュースを36号ぐらい出しました。
 このシステムで、非常に調整はうまくいったのかなと思っています。ボランティアと同時に、それから活動資材も当然不足するだろうということも考え、ホームセンターなどに積極的に電話をさせました。
 私どもにはそういう経験がなく、職員も戸惑ったのですが、ダメでもともとだから片っ端から電話をするように指示しました。また、それは借りるのではなく、提供を要請するようにしました。日用品の提供、あるいは弁当屋など、いろいろなところに情報を提供しました。そういう中でボランティア活動拠点を設置し、そこでボランティア活動を開始したわけです。
 それから、調整で苦労したのは移送の問題でして、車で来たボランティアを移送担当として現地に移送してもらったということもありました。 今回の災害で、2つの市町が大きな被害を受けたわけです。一つは黒磯市ですが、黒磯市における対応はどちらかと言えば、市町村社協(黒磯市社協)が私ども県社協と、それから地元のボランティアを中心にして救援活動を始めたということになります。
 もう一つは、那須町ですが、この町は非常に地域が広く、災害でいわゆるライフラインが寸断され、情報も取れなかったこともあり、黒磯市に少し遅れて、黒磯市社協と、それからNGO(非政府組織)と言いますか、ボランティア団体、それからJC(日本青年会議所)とか、そういう団体がボランティアの水害センターを立ち上げて対応しました。
 ただ、三国や、あるいは阪神での対応も踏まえて、やはり私ども県社協とすれば、調整を中心にしながら私どもはあまり前線には出ないようにして、地元のことは地元がよく知ってるわけだから、それは地元に任せようという方向で対応することにしました。地元から要請があれば、私どもは資材や人は派遣していこう、そういう形の調整をしてまいりました。そういう中で約2週間、私もずっと出ていましたし、かなり厳しいものがありましたが、非常に学ぶことが多かったと思います。
 救援活動には、高校生や若い人がどんどん来ました。そういう中で特に大きな変化は、県の高等学校長会が、災害救援ボランティアについて1週間の公欠を認めるという決定を出しました。
 ただし、それはどこで活動してもよいわけではなく、活動の主体が一定の公益法人といいますか、社協などであって、そこの証明書があれば1週間認めるというものです。それが理由でドッと来たわけではないとは思いますが、高校生をはじめ多くの青年がまいりました。
 農業高校などは、作業の仕度をし、資材やそれを運ぶための一輪車を持って来てくれました。また、工業高校も来てくれました。それから、農業短大とか、学校単位で来てくれたところと、個人で来てくれたところも多くありました。
 そういう中で彼らを見てきたわけですが、アンケートを見ますと、栃木弁で言いますと「やってらんねえよ」と書いてあるのですが、また「疲れちった、やってらんねえよ。でも、明日また来ます」と書いてありました。
 それから、私もずいぶん注意したんですが、ズック靴で来たり、それから何も持たないで来たりということもあって、「行けば何とかなる」という気持ちがあったようです。あるいは、弁当を持って来ない高校生も確かにいました。
 私は基本的にこういうように考えてきました。もちろんラジオや他のマスコミを使ってPRしたのですが、活動に来るときはこういう恰好で来てほしい。また、弁当はないこと。ボランティアのためにボランティアが炊き出しをすることは無駄ではないか。若干トラブルはありましたが、その辺はクリアにできたと思います。
 最後に、あとでまた説明いたしますが、那須町の町長さんがボランティアセンターの一時中断の打ち合わせのときに、最後にこう言っていらっしゃいました。「那須町は多くのものを失った。人も失った。もちろん牛も失った。財産も失った。だけども、(ボランティアは黄色いリボンをつけてたんですが)黄色いリボンの皆さんから多くのものを学んだ。それは町の復興の勇気だ。私たちはそのリボンを忘れないだろう」という言い方をしてくれました。
 私ども本当に胸が熱くなって、やってよかったのかなと思いました。私だけではなくて、それを聞いていた人たちが、目頭が熱くなるほど感動したと思います。 よい活動というのはよい感動を呼ぶし、それがまた一回りも二回りにもなるのかなと思っています。
 打ち上げといいますか、ボランティアセンターを閉鎖をするときに、何かやろうかという話が出ましたが、私はいまするより、1年後になるかどうかはわかりませんが、むしろ今度は町や、黒磯市や那須町の住民が、ボランティアを呼んで、そこで「これだけになりました」というような集いを考えたほうがよいと提案しました。今回打ち上げとか何とかじゃなくて、1年後、2年後、自信を持ってボランティアで来てくれた人たちを呼ぼうじゃないかということで、ぜひやりたいと考えております。 今回の災害で、失ったものは大きいのでありますが、私どもだけではなく高校生や、あるいは若者も含めて、非常に多くのものを学んだと思います。それは、ある面では被災者の犠牲から学んだものでありますので、これを大事にしなければならないと思います。そういう意味で、私ども社協の仕事というのは非常に大事な仕事かなと。そんなことを考えております。

伊藤  ありがとうございました。 大変貴重なお話をいただきました。

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