基調講演 本文

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 小山内美江子です。こんにちは。
 後ろで立ってらっしゃる方がいらっしゃるんですけれど、前のこの辺空いています。こういうとこがお節介おばさんなんですけれど、座れますよ、後ろの方。座れますので、座ってゆっくり。私のあと、素晴らしいパネルディスカッションなどがありますのでご参加ください。
 いまご紹介いただきましたように、私はカンボジアから帰ってきまして、まだ10日も経っておりません。
 昨日、一昨日あたりまでは、頭の中がカンボジアのことと防災ボランティアのこととごちゃごちゃになっておりまして、そのせいか風邪引きまして、今日は座らせてくださいとわがままを言いまして、座らせていただいております。
 同時に、あんまり高いよりは座ってお話しした方がいいのかなあなどと勝手に思っておりますが、先ほどもパネルディスカッションの出演者の皆様たちとお話ししながら、「4年前のあのときも連休でしたよね」というお話をしました。
 あのときは振替休日があって、1月16日までお休みだったんですね。ですから、東京あるいは京都、名古屋、あるいは九州、そういうところに働きに行ってる方、あるいは大学に行ってる方が成人式に帰られて、もう1泊して帰ろうというために命を落とされた方もいらっしゃるし、そのために1日早く、お友だちとの約束があるわといって帰られて助かったという、非常にこの連休というのは運命を分けたんだなあというふうに私は思っています。
 私としては決して防災の専門家ではありません。にもかかわらず、基調講演をお引き受けしてしまって、どういうお話したらいいだろうと迷っておりました。防災の話だけじゃなくて、年寄りの知恵というようなものも聞いていただきたいなと考えました。
 でも、結構この席ではご年輩の方もいらっしゃいますので、私はたぶん今日いらっしゃる方のおばあちゃんぐらいの年だろうと思っておりましたら、おばさんぐらいのところもありますが、なぜ私がおばあちゃんと位置づけるかと申しますと、実は私の祖母が関東大震災を経験しております。私の父も経験しております。
 この祖母というのは、私のシナリオライターとしての先輩であり、熱海というところの同じ分譲別荘地に住んでいる橋田寿賀子さんという方がいらっしゃいまして、あの方がお書きになるお姑さんよりもっとひどいおばあさんだったと私は記憶しておりますが、そのおばあさんが私たちの子どもの頃に地震の恐さというのを話してくれるんですね。
 子どもが地震を恐がると、面白がってこれでもかこれでもかと余計恐がらせるという悪い癖がありました。でも、父に聞きますとね、その祖母というのはやっぱり地震経験しただけに、本当に恐かったようです。
 当時、祖母は2階に私の弟と寝ている。1階に、私は父たちと同じフロアに寝てたらしいんですけれど、昔の家にしてはちょっと珍しく階段に踊り場があるわけですね。地震だというと、祖母は弟を抱いて2階から下りてくる。父は私を抱いて下から上がってきて、抱いてこの踊り場で一緒になるけれど、2階へ上がれと父は祖母にどなったそうです。揺れたら上がれというのが鉄則だったというのが、本当に4年前のあの地震を見ても、1階がつぶれて2階が助かったというのは本当だなあと改めて思いました。
 その祖母が、とにかく「関東大震災のとき東京の川は鰻がいっぱい浮いたんだ」と。「その鰻が全部白いお腹を出してねえ」なんていうことを言いますもんで、いまだに私は鰻の蒲焼きというのはどうしても食べられない。
 これを「トラウマ」と言うのか「トラウナ」と言うのかちょっとわかりませんが、やはり子どものときに聞いて嫌だなと思ったと同時に、こういうときはこうするんだなという対策は子ども心のどこかに残るんだということで、おばあちゃんの話というのは決して悪くないなと思います。
 いまはどうなってるかわかりませんが、私は横浜に生まれたわけですけれども、横浜には「震災記念館」というのがございまして、小学校のとき学校から見学遠足のようなものがありました。そうしますと、いろんな絵が描いてあったり、焼け焦げた、あるいはもうくっついてしまった瓦が置いてあったり、いろいろあります。その絵の中で、おうちが崩れてきて、足が挟まって、そして「助けてくれ」というのと、「ノコギリで切ってくれ」という絵があって、それは本当に恐かったです。
 小さいときよく地獄絵を見にいかされて、それが子どもたちにやって良いこと、悪いことという規範があったんですけど、それに近いように「ああ、もし地震が起きたときはああいう場面というのはあり得るんだろうな」っていうのを、小学校のときからどこかにおばあさんの鰻の話の続きで、結構私は地震ということについて敏感にというか、細かくインプットされていた子どものような気がします。
 けれど、育つ間にはそんな大きな地震に見舞われることはありませんでした。けれど、東京は昭和20年3月10日東京大空襲がございまして、私の家からはもう向こうの空が真っ赤に見えて、あの火の下では何人もの方が亡くなっているんだなあと身を硬くして見ていたことを覚えています。
 それまでは日本の国として、とにかく焼夷弾が落ちてきたら火はたきでこうやって消しましょうという防空訓練というのを盛んにやっていたんです。これで本当に実力発揮して助かったというのは、東京の中では一町内、本当に珍しい歴史を持った人形町の一角というのは残っております。これは風向きが変わったんで残ってるんですが、下町ではそれ以外の地域はほとんど焼失しております。多くの人が亡くなりました。それを見ていた大人が、「もう焼夷弾が落ちてきたら消火よりもまず逃げろ」というのが合言葉でした。それが3月10日です。私の家は4月15日に焼けました。  兄たちは戦争へ行ってたんですけれども、残った家族は二手になって逃げましてね、先にお前たち逃げなさいということで、私と弟と母が先に出まして、父がちょうど患っていた祖母をリヤカーに乗せて布団いっぱい掛けて、それでたまたまそのとき泊めてくださいと言った海軍さんを介添えにして二手になって分かれたのですが。
 いまでも阪神・淡路大震災のあと、一旦家族が避難するときは会うところを決めておこうというようなことが言われておりますが、私は2か所決めた方がいいと思います。というのは、私自身「どこそこで落ち合おう」と決めてあったんですけれど、その行く方に火の手が上がってどうにも行かれない。打ち合わせしたところと全然違う場所で一夜を過ごして、そして朝がきたら、跡形もなくなっていたわが家の井戸のところから、別々に逃げた父が針金を通して、逃げる前に放り込んどいたお釜か何かを吊ってる姿がありまして、「ああ、無事で良かった」というふうにお互いに言ったんですけれど、やっぱり落ち合う場所、あるいは連絡する場所というのは2つぐらい決めておいた方がいいかなというのを実感しております。そのときにお昼頃ちょっと懇意にしてる奥さん、昔のことですからおかみさん、おかみさんというのは昔、大したものだったんですけど、おかみさんが従業員を連れてお見舞いに来てくれました。
 それは、当時としてはもうお米もろくになかったので、おにぎりの方は私あんまり記憶ないんですけれど、大きなやかんに味噌汁を作って、そして昔、商家などというのは「人寄せ」というのがあって、お茶碗なんていくつもあるんですね。お祭りというと、お茶碗を簡単に景気のいい若い衆が割っちゃったりするもので、そういうお茶碗なんかたくさんある。
 そのお茶碗と割り箸を持ってお見舞いに来てくれまして、そのとき私15歳でしたけれど、ちょっとびっくりしましたね。お鍋で持ってきたらタポンタポンしちゃいますね。だけどおやかんなので、口に栓してふたしていればタポンタポンしない。そして、上手についでいって上からお豆腐みたいなものを入れればそれでいいというので、非常に私感動しまして、それから20年ほどしてテレビを書くようになりまして、何のめぐり合わせかわかりませんが、空襲のシーンを書きました。
 このときに、私はあの時のやかんというものをそこで登場させましたが、テレビというのはある意味、情報伝達という場でもあるわけで「なるほど、ああいうときはやかんを使ったらいいのかな」と思ってくださった方が、仮に1人でもいたら、あのおかみさんの気持ちが私に伝わり、私から画面を伝わって、そのあとに伝わるのかなあと思いましたけれど、やっぱり相手の身になる、割り箸が付いていた。箸が付いてなきゃどうにもならない。つまり、相手の身になるというのがボランティアの基本ではないかと私は思います。
 よくボランティアというのは、先ほどというか昨日、高校生の方がそういうお話合いをして、このあと高校生の方のお話があるというふうに伺っていますが、若い子たちと話しますと、ボランティアって何か恥かしくてできないとかね、何か良い子ぶっててちょっと嫌だとか、よく言われることがあります。大学生や結構立派な大人の方が「ボランティアの定義って何ですか」なんておっしゃる場合があって、そうなると私、答えられないんですね。ボランティアの定義って何だろうと。
 そういうとき、最近こういうふうに言います。「ボランティアというのは英語で言うから難しいんで、昔から日本人が持っていた心なんだ」と。「だから、自然に出るもんなんだ」と。ボランティアなんて言うから難しく考えるので、重い荷物を持ってるおばあさんが階段上っているときに、「お持ちしましょうか」と言うのは普通すっと出るんだと。
 すると、「なるほど」と言うんですが、近頃の若者はそこでまた悩みを訴えまして、私はシナリオライターであると同時に、もう一つ海外へ出ていくボランティア団体で若者と一緒にやってますけれど、本当に素敵な若者がいるんですけれど、茶髪が結構多いんですね。
 茶髪で、今度カンボジアへ行きましたら、ピンク髪までおりまして、カンボジアの人も呆然として見てましたけれど、こういうのは結構優しいんですね。だけど、そういう優しいのが「おばあちゃん荷物持とうか」と言うと、上から下まで見られて「持ってもらって大丈夫かな」と思われるところが辛いんだと。でも、その辛さと君の茶髪の自己主張と、それはよく考えて決めなさいなんていうふうに言いますが、本来、日本人が持っていた心です。それが自然に出るというのが、私はボランティアだろうと思います。
 ですから、4年前に若者を主体にたくさんのボランティアが神戸に駆けつけました。それで、世間はびっくりして「ボランティア元年」だというふうに言うんですが、私は人のために何かするという心は元々持ってたんだと思います。
 ところが、近頃は学歴というか、お勉強していた方がかっこいいので、ボランティアなんかしてると恥かしいみたいな風潮の中で言えなかった子たちの中にもずっとみんなで助け合うという精神は、遺伝子として組み込まれているのですね。日本人の中に遺伝子として組み込まれている。
 狩りをするにしたって、みんなで一緒にやって、そして分配する。農村もみんなでお米を作って分配するというようなことを、営々と積み重ねていまの生活があるんだというふうに思いますと、やっぱり助け合うという基本的な精神というのは、もう否が応でも、ピンクだろうが茶髪だろうが持っている。それが表に出たというのが、あの阪神・淡路大震災の救援活動なんだろうと私はそう思います。
 いま私は、地震が恐いと言いながら横浜で生まれまして、昭和49年に母の健康があまりよくなくて、「もうちょっと空気の良い所で暮らさせなさい」というお医者さんの言葉で、母を連れて熱海というところに移り住みました。熱海といっても、決して青い灯や赤い灯の熱海じゃありません。熱海の山の方です。
 かっこよく言えば、「毎日が森林浴」。下の方に海が見えまして、正確に言えば不便だというところに住んだのですけれども、母の健康には本当に良い所でした。でも住んでしばらくして気づいたというか、気づかなくても新聞にボーンと出てたんですけれど、そこが地震防災対策強化地域だったわけですね。「とんでもないところに来ちゃったわ」と思ったら、その年から群発地震が始まりまして、だいたい1年半おきぐらいに群発地震が始まるのですね。
 そうすると、必ずNHKのテレビに解説委員の伊藤和明さんか何かが出ていらして「この辺の海底は」なんておっしゃるわけですけれども、恐いわけですよ。恐がりが恐いところへ行っちゃったんで、どうしましょうと震えましたが、恐い場合はね、やっぱり勉強するしかないと。
 いまでこそ、阪神で大きな地震があったからいろんな地震の本が出ています。中には半分本当かなあと思うような本も出ています。その前のあんまり出ていない頃、地震の本って気づくと、とにかく取り寄せて読んでみました。
 その頃、関西の人が東京に来たときにちょっと揺れたりすると、馬鹿にするんですよね。「東京は地震があるからねえ。関西は大丈夫だ」って。本当にこの会場で被害に遭われた方にはもう大変申し訳ないんですけれど、地震の歴史というのを読むと、ちゃんと関西にあるわけですね。
 それで、いくつもあった中でお芝居として有名な『地震加藤』というのがあって、伏見城が大きく被害を受けているというような事実がわかります。さらに遡っていくと、結構どこどこで震度いくつというのはいまの学者が当てはめたんでしょうが、何人ぐらい死んだっていう数字が出ている。  というのは、これは徳川幕府になってから、農民がそこを逃げ出すと、そこの領主様は大変なおとがめがあるので、きちんとそこの人数を把握しているところから出てきたものだろうと思いますが、結構、関西、中国地方、紀伊半島は地震があるんですね。ただ、今は眠ってるだけなんだけど。いつ動くかわからないんだという上に私たちが暮らしている。東京も同じです。  東海大地震というのがあるかもしれないし、その前に東京直下型があるかもしれない。その上に暮らしてるということはお互いさまであるけれど、そこで防災を強化しなければならない。一所懸命地震の本を読むんですけれども、本当のところはよくわからないで書いていらっしゃる先生もいらっしゃるような気がしますから、あとはいろんな人に聞きながら、自分たちで備えるものは備えていくんだなと思います。  熱海におりましたときに、群発地震というのはまたちょっと特別でしてね。執筆しております、グラッときますので身構えるとすぐ終わってしまう。グラッときてるけれど、書き続けようと思うと今度はすごくくるというので、台風と違いましてね、今度は震度4ですとか震度3ですとか言ってくれないわけです。集中力が途切れますのでね、とても書いていられない。
 そういうときは、車に母親を積んで、助手さんを積んで皆、東京に逃げて、息子のアパートかなにかに転がり込んで、そこで書くという。1週間もすれば、静かになりますので熱海の家に帰ります。
 すると、いつも来てくれているパートの人が留守の家の窓を開けて「犬は大丈夫よ」とか言ってくれるんですが、そのときに本当に思ったのは、私はいまシナリオを書いているという名目で逃げている。しかし、その土地から逃げられない人がいるのですね。そこに生活の基盤がある、学校へ行っている人、お巡りさん、商店の人、そういう人たちに私は非常に後ろめたい思いを持っておりました。
 それがヨルダンに出かけて行った思いにつながっています。湾岸戦争で難民になり大変な思いをしている人たちがいるのに、私たち日本はそういう思いをしないですんでいる。大変なところから逃げ出せない人たちへの、私たちが何かしようという思いが、私をヨルダンに行かせたということになりますが、そこから私の海外ボランティアというのが歩き始めるわけです。
 防災について言えば、私は熱海の山の方に住んでおります。大きな地震があったらたいてい町の方から助けていきますよね。山の上の別荘地にいる人はどうしても後回しになる。それは仕方がないです。景色の良いところに住んでいるのだから、良いことがあれば悪いことがあるって、それはもう覚悟決めなきゃいけない。とすれば、10日間なら10日、1週間なら1週間、自分でその助けがくるなり、何とかなるまで生きる工夫をしなきゃいけないというふうに思いました。
 それと、その頃、住み込んでいたアシスタントのお嬢さんというのは、他人様の大事なお嬢さんです。その人たちに万が一のことがあってはいけませんので、一所懸命その頃、通販なんか見ますとね、「すぐこれは買おう」なんて言いましてね。おかげさまで熱海の家に、テントが二張あります。それで、1年に1回必ず「どこだったっけ」と言わないように、赤は赤でテープを付けておいて、それを組み立てる練習をしています。
 母が健在のときは、おばあさんはベッドの上に起きて「ここまでは自分でやってちょうだいね」と言うと、母がお気に入りのポシェットをこっちから掛けましてね、こっちから防空頭巾を掛けてね、「できたよ」と言って座っていたのです。そこで「グラッと来たら自分でおふとんをかぶっといてね」とか何とか。実際グラッときてないから言ってるんですけれども。
 そして、そのうちA子さんは、ガラスに×にガムテープを貼る真似をします。貼っちゃうと、あとはがすのが大変ですからね。そのうちB子さんは裏へ行ってお風呂に水を入れます。
 そのうち、ガラスの×はこれは駄目だと。これは総取っ替えしようと考えました。ひびが入るけど、割れ落ちないというガラスがあります。結構高いんですね。でも、私は宝石趣味があるわけじゃなし、そんなもの買ってしまっておくより、同じきらきら光るものなら安全なガラスの方がいいやということで、全部取り替えましたね。
 ガラスが割れたらどうなるかと言ったら、やっぱりガラスがすぐに間に合わない。それも、冬だったらどうする。雨風が吹き抜けたらどうするというところまで考えるというのは、必ずしも私がシナリオライターだからというふうに思いませんが、台風19号が、だいぶ前ですけれど九州から東北に走り抜けて大きな被害がありました。  あのとき私は用事があって熊本に行きまして、熊本のホテルの21階、夜着いたんですけれど、朝「民のかまど」じゃなくて民の屋根を見ましたら、全部ブルーシートでしたね。やはり、瓦が間に合わなかった。3ヶ月も4ヶ月もブルーシートの人がいたということで「ああ、私のガラス作戦は間違ってなかった」というふうに思ったんですが、予測をしていくということで、9月1日をもって私のうちは自主防災訓練をやるわけです。
 本気になってヘルメットかぶって、犬までバタバタバタバタしましてね、ちょうど道がヘアピンカーブに曲がってるもんですから「何やってんだろう」って、車止めて眺める人もいるんですけれども、ジェネレーターまで買いましてね、ピャッと引っ張るとうなりますから「ああ電気ついたついた。大丈夫」とか、できるだけのことは面白がってやる。
 その犬は年とって亡くなりましたけど、犬のために私たちの食料を分けてあげることはできない。だから、犬を飼ってる場合ドッグフードはもう1袋必ず予備に買っておく。それから、いまお気取りでどこだかの「名水」なんてのをくださる方もいらっしゃいますが、飲まない。全部取っておく。
 これは、賞味期間が切れてもこれで顔を洗うこともできる、犬にやることもできるということで、できる限りは自分たちで、地震というのは逃げるんじゃなくて迎え撃つんだという覚悟を決めております。
 それだけに、かなり神経質に熱海で暮らしておりましたから、この4年前のあの阪神・淡路大震災のときに私は本当に驚いたことがあります。  それは、静岡の道路は本当に幹線道路ですので、東海地震の警戒宣言が出たら、まず新幹線は止まります。それから高速道路も止まります。国道や県道も必要なもの以外はもう通さない。ということは、私たちはもう住んでいる地域から出るわけにいかないんですね。とすれば、そこでさっき言った備えと一緒に、この地震を迎え撃つしかないんだと覚悟を決めていたわけです。
 ところが、阪神・淡路大震災の時は車行きっぱなし、走りっぱなしの道路大渋滞。あれでどのくらい多くの人が命が救われなかったり、「防災」というインチキ札をかけて走っているなど、信じられませんでした。私はあのとき熱海市民として、絶対外へ出られないんだという覚悟を決めたのを、何か大阪、神戸の人に裏切られたような思いをしたんですが、これはみんなが身にしみたことなので、絶対にこれは改めると伺っております。
 それからもう一つ、今日はマスコミの方も来ていらっしゃるというようにちらっと聞きましたけれども、誰だってあの惨状を見れば心配です。で、若いお母さんが子どもを抱っこして心配そうでいるところに、リポーターが「どなたをご心配なさっているのですか」と「はい、母があちらへ」なんてテレビ報道がありましてね。私は本当この両者ひっぱたいてやりたいと思いました。
 車はここまでしか来られなかったと言うんですよね、若い奥さんが。そして赤ちゃんをこうやって抱いてるんですよ。赤ちゃんを抱っこして、あの向こうの大混乱の中に行こうという神経が私にはわからない。この赤ん坊を連れて、被災地へ入っていって、何かあったらどうするんでしょう。自分の母親も心配だろうけど、自分だって母親じゃないかと思ったときに、映しているマスコミがなぜ「こんなところにいちゃいけませんよ。赤ちゃん連れていて危ないじゃないですか」と言わなかったか。「あっ、これはいい絵になる」と言って撮ったのかと思って、私は「ああ、だいぶこれはモラルが落ちてるなあ」と思ったことは確かです。
 しかも、多少やらせというものはあります。「すみません。こっち向いてください」と言って、ちょうど入れ込みで火が見えるようになってるんですよね。私もテレビ人間の一人として、こういうことは本当に気をつけていかなければいけないと腹が立ちました。
 同時に、私は北海道にも知り合いがおりまして、あちらでも時々大きな地震がありました。いまそこにお年寄り一人で暮らしていらっしゃいます。とても心配です。  でも、大きな地震があっても私はすぐに電話しません。電話をしたって、どうしてあげられるわけじゃなし、「恐いよ」と言ったってね、それから羽田へ飛んでって飛行機に乗るというわけにはいかないんですから、電話はしません。というか電話がそれで混線してしまって、救急車を呼んでる電話とぶつかったらどうするんだと考えるのです。電話はその翌日でもいいんだというようなことが良識持って相手の身になって考えるということが一番大事なんじゃないかと思っております。  私どものグループは毎年、毎年カンボジアに行って、今年もちょっと前に帰ってきたばかりですけれど、1995年は最後の班が1月の11日に帰ってきました。ですから、これもまた1週間も経たずに地震だったわけですね。
 私たちは大学生を主体とした活動で、カンボジアに学校を建てています。初めは、建てると言ってもお金がないですから、バザーをやって、バザーで集めたお金で建てに行って、そのバザーで、俳優さんだとかスポーツ選手とかいろんなものを頂戴して、それを学生がみんな売り子になって売って、そしてそのお金で行くわけですね。  第1回目のときに、とてもよく働いてくれる上智大学の1年生のお嬢ちゃんがいまして。はっと気づいて「あなた、お父さんのネクタイ持ってきて」と言いましたら、「母と相談して」と言って持って来てくれた。これをそのバザーのときに売りました。とても高く売れたのは、当時、人気絶頂の日本国首相・細川さんのネクタイだったわけです。
 ですから以後、私は日本の首相のネクタイを売ろうと決心いたしましてね、その次は村山富市さんのネクタイです。正直言って、細川さんのよりあんまり趣味がいいとは言えませんが、すごく律儀な方ですから、「内閣総理大臣・村山富市」という名刺を付けてくださいました。
 いつまで通用するかわからない名刺付きで、「さあいくら」と言ったらとても高く売れてしまって、その次の年もなぜか村山さんでした。その次が橋龍さんで、羽田さんだけは売り損ないまして。あちらが短かったんで仕方がありませんが、去年はもういろいろありまして、小渕さんのを頂き損なってしまいました。
 今年はいったい誰のものなんだろうって大変楽しみがありますけれど、その売り上げを持って行ってカンボジアの子どもたちに学校を作っています。
 これは全く防災とは関係ないようですが、ポルポトという勢力が芸術、宗教、教育というのを徹底的に弾圧したために、教師の約8割が虐殺されたり国外に逃げているということで、あの国をいまリードしていくインテリが本当にいないというのがあの国の不幸だと思います。同時に、学校もありません。
 で、その前に私たちは難民さんが帰ってくるのをお手伝いしていたんですが、その次に学校を作ろうと。「カンボジアの子どもに学校を作る会」という名前だったんですけれど、非常にそそっかしい者がおりまして、「カンボジアの学校で子どもを作る会」なんてとんでもない間違いを言いますので、その後、「JEN」という、これは日本国際救援グループという形で、得意な分野を持っているNGOが一緒になって一つの活動をしようということで、いまユーゴの方にも行っております。昨日、アフリカに毛布を届ける班も出ました。
 カンボジアの学校を作るというのは私たち独自の会ですが、それ以外の活動は別の団体と一緒にやっています。そういうふうに、一緒に力を合わせて日本人の顔を見てもらおうという活動をやっているんですが、いまは名前を変えまして一昨年から会員制にしました。
 というのは、いままで会費も取らない変な会だったんですけど、NPOというものを見据えて、やっぱり会員のお名前を頂戴するというので、JHP(JAPAN TEAM OF YOUNG HUMAN POWER)というのです。
 「日本の若い人道的な力」という意味で、こういう名刺を出しますと欧米の人が、「お前もヤングか」と言うから、「イエス、私はハートがヤングだ」と言うと「そんな顔をしてる」と言う人もいますが、若い人を中心にした団体です。
 で、1995年1月この人たちが帰ってきたときに、学校によっても違いますが、だいたいその頃、大学生は試験にかかるわけですね。試験を入れ替わり立ち替わりしながら、とにかく第1陣は17日のうちに熱海の私の家に来て、すぐに駆け付けたいと言う。ですから私の家で、東海地震用に備えていたものを大きなリュックサックに、寝袋その他懐中電灯やら小さなラジオやらそういうものを全部詰めて、第1陣として彼を出発させています。
 そのときのニュースでは、新幹線は京都まで行くであろうという状況でした。京都まで行くであろうなら、行けるところまで行って、京都からこういうふうに地下鉄で行って、梅田あたりに出てごらんと言ってあげるのがせいぜいのことです。その次の日は、もうすぐその子からも情報を得て別の学生が出発しています。その次の日も、また違う学生たちが神戸へ行っています。
 最初に行った子たちだけは、梅田から6時間かけて神戸市役所まで行ったんですが、混乱を極めていたようです。
 もっとも、それは仕方のないことで、それより自分たちが、もっと小回りが利いて働けるところを探そうということで、戻ってきて芦屋に集結した。  というのは、芦屋と熱海市が仲良しの市の何かお約束があったようなんですね。熱海市から救援隊が出るということを聞きましたので、市長さんに「うちの方も芦屋に寄ったときにいろいろと便宜お願いします」と言ったら「もうそれは若い人が来るならばいいですよ」と言ってくれて。
 ちなみにこの市長さんは、第1回目のバザーのときに、岩下志麻さんから素晴らしい着物が出ましてね。こういうのは安く買っていただくのと高く買っていただくところ、コーナーが2つに分かれているんですけれど、「さあいくらいくらいくら」って競り上げましてね、実際には100万円以上の着物なんですけどね、10万円で買ってくださった。
 そのときは助役さんだったんです。だから市長さんになれたって私は思っているんですけど。そういうことにはもうすぐに反応される方で、私たちの活動にもとても注目してくださっております。私たちのグループのメンバーは芦屋で合流したのですが、そのうち芦屋まで電車が来るようになったので、土日ボランティアという人々がかけつけてくれるようになり手が足りてきた。そこで町のお医者さんが長田の区役所で診療を始めて、そして各避難所へも回っていく。お医者さんはいる、だけれどもドライバーがいない。そこで、うちの息子とか、大学を出た社会人になってるのが、ドライバーの役割にまわる。ドライバーというのは診療してる間、暇なんですね。暇なときにそういうお医者さんが来てますよってみんなに知らせて歩きながら、どこに取り残された人がいるかということをチェックしていくということで、そういう仕事に徹したというのが、毎日のように連絡があるので、品物を持って行って、「ありがとう」と言われて、そして充足感を得るのもボランティア。下働きで、いつか役に立つということをやっているのもボランティアと思いますが、とにかくマップを作れということで、どこに誰が取り残されているというのを、こまめにとにかく歩けということをやりました。
 その中で、ユーゴに行く学生はいつも寝袋を持たせて行きますが、ユーゴとかカンボジアに行ってきた学生たちはやっぱりひと味違いました。何もないということへのイメージというのがつかめているんです。つかめていないけど、遺伝子って言いましょうか、DNAと言いましょうかね、そういうものに揺り動かされて、それで飛んできたけれど、寝るところも自分の着替えも食べるものもない、ただ自分の気持ちだけで飛んできた若い人もいる。
 これだけでもとても尊いものと思うんですが、それに対して「ボランティア難民」なんてとんでもないことを書くマスコミが出てきて、まあもっとも新聞記者でもネクタイして出かけた人がいるから、恥かしかったからそう書いたのかもしれないなとは思いますけど。そういう人たちに、とにかくJHPというあそこのテントへ行くと学生たちがいるからそこに行きなさいと言って、気持ちだけで駆けつけて立ち往生していた人も回ってくるようになり、のちに一緒にカンボジアまで行っちゃった人もいる。ご縁というのは妙なもんだなとか、これをネットワークと言うのかなあとか思いました。いろんな団体、「あら、あそこで会ったわ」という人たちと出会うというようなことで、学生たち自体が更にネットワークを広げていった。
 うちの方は、その後すぐまたカンボジアに年3回、当時行っていましたので、3ヶ月ぐらいで撤収したんですが、いまだに個人的に、間もなく仮設もなくなるわけですけど、そこへ通っていてくれる学生がいます。
 そこで、仮設のおばちゃんからコーヒーの空き瓶に十円とか白い一円玉が入ったお金がうちの事務所に送られてくる。「私たちも大変だけど、みんなに親切にしてもらっている。だから、どうかこれで学生さんたちやカンボジアの子どもたちのために使って下さい」というそういうのを見ますとね、もう胸一杯で本当に大切に使わないわけにはいかないなと思っています。
 そんなことが私どもの会の動きではありますけれども、同時に、紛争地や途上国へ行って、そこの現場で教育施設がない、道具がない、何もない、なぜない、どうしたらいいかっていうことを学んできてもらいたい。日本の中では、この間の阪神・淡路大震災、これから来るべき大きな災害に遭わない限り救援とかがよくわからない。だったら出かけて行って、震災だけではなく、なぜこういう紛争があるのか、あるいは紛争のあと、どうして遅々としてこういうことが国の復興としてつながらないのかということを現地で学び、現地から日本を見直すという活動をしばらく続けたいなあと、私自身は思っております。
 あとは、もう一つ、高校生の問題が出てくると、「よけいなことを言ってる」なんて言われたけれど、「帰宅難民」の問題というのがありますね。
 阪神・淡路大震災の場合は、不幸中の幸いというのは、あれが朝早くだったわけですね。これが、ちょうど通勤時間だったり夕方だったらもっと大変ですね。皆さん、乗り物に乗ってたり、ご家族がばらばらに動いてますね。この心配がもっと膨れ上がるのは、大変なことだろうと思いました。
 でも災害はいつ起きるか全く分からないわけで、そういうときのことを考えたら、電車で通勤している人たちが歩いて通勤することを1回試してみたとかいろんなお話がありますが、やはり「帰宅難民」という問題があると思います。そのときに私は、「高校生は家に帰るな、帰すな」ということを言っております。
 というのは、この間の阪神・淡路大震災を見ても、中学校とか高校とかがだいたい避難所になっている。というのは、建物が鉄筋でちゃんとできている。だから、慌てて逃げて、混乱して、電車で巻き込まれて怪我するよりは、学校に残っていた方がいい。そこへ救援物資も来るわけですから、そこへ残っていて、そこの地域のお年寄りたちの救出作業に役立ったらいいのです。
 年齢的に見ても、この辺が一番力があるはずです。ですから、一番力のある年齢の若い人たちが、「地震になったら帰るな。高校に残りなさい」ということをいま一所懸命言っているのですけれど、即戦力として地域のために頑張ってもらいたい、そう思っています。
 (咳をした後)それから、いままでよく咳が出ない。自分で感心してたんですけど、やっぱりちょっと時間までもちませんでしたね。風邪です。ごめんなさい。
 あとは、今年を最後にやめたんですけど、12、3年続けて「オートスカラーシップ」といいまして、高校生の作文の審査をやったことがあります。
 いまの高校生が何を考えてるのか、それを知りたかった。じゃなかったら審査員というのは私の性分に合いませんので、あまり引き受ける気はしませんが、2つだけ引き受けてます。高校生の「オートスカラーシップ」。
 もう一つは、NHKの「わかば基金」と言いましてね、厚生文化事業団という、日本の人たちが何を考えて、どういうボランティアをやってるか。上限が100万円まで、それを助成していこうという審査員をやっています。
 そのときに高校生の作文でしたが、タイトルが「私はミシシッピーを守った」。非常にインパクトのあるタイトルで、読んでいきました。
 アメリカのミシシッピー川というのは非常に長い川なんですよね。そこのどこの流域の高校にいたのかは知りませんけれども、川があふれた。みんなが行って土のうを積むのだけれど、誰かボランティアが来ないかというので、どうしようかと思ってるうちにお友だちがみんな出ていった。だから自分も出ていった。そうしたらみんながあふれそうな堤防に土のうを積んで。結果的に一晩みんなで土のうを積んだら、堤防が切れなかった。そこで自分は考えた。
 日本にいたらどうだったろう。多分、増水するからみんなおうちへ帰りなさいと学校に言われて帰宅するけれど、土のうを積むのはたぶん自衛隊さんか町内の消防団のおじさんたちの仕事だ。自分たちがやることだと思わなかった。でも私は自分にできることとしてミシシッピーの土のうを積んだ。
 実に誇らしげに書いてあって、私はとても感動しましてね、これも12、3年前の話で、ここにやっぱりボランティアの精神というか、自分でやることが分かっている。
 ボランティアと言っても、自分でやること、行政がやること、行政にできないこと、自分たちにはできないこと、そういうものが組み合って、行政も民間の知恵を借り、そして民間も、ここは自分たちがやるけどここは行政にやってくださいということを、しっかりとやったらいいと、そう思っています。
 1人だけ、若い人の、実際の人の紹介をしたいと思いますけれど、一緒にカンボジアに行った青年です。帰ってきまして、すぐに地震でした。彼はその前の年に、この就職難ですが、見事どこかの市役所に入りました。どこかというのは、東京に小さな市がいっぱいあるんですよね。田無市とか小平市・狛江市などなど、小さい市がいっぱいあるんです。
 そこから自分は行きたいと言ったら、そういう規定がないから、有給にはならないのですね。でも、行くと言って彼は、私たちと一緒に芦屋市に向かってとてもよく活動をしました。そして市役所に帰り、もしもこの地震が自分の市の近くで起きたらぞっとする。自分が市役所の一員として見るに、うちの市にはこういう備えがないと、経験してきたものを全部書いて出した。以来、その市ではそういうことをきちっと文言化して、ボランティアというものにも積極的に参加していくようになったというのは、その子も勇敢だったけれど、それを受けとめた市側の真剣さも本当にうれしいなあと。一人でもそういう人が自分の体験を社会に活かすというのはうれしいと思っています。
 あとは、この高校生防災ボランティアスクールというパンフレットの中に、何があったら便利かなあというのがあって、私も本当によくチェックしてるなあと思いましたけれど、あえて意地悪ばあさん的に言えば、これに蚊取線香と使い捨てカイロみたいなものがあったらいいなあと思います。
 これは、地震というのは、夏くるか冬くるかわからない。ということは、外地で経験したことから申し上げました。この辺で終わりますが、終わる頃、何となく喉も治ってきて、申し訳ないと思いますが、どうもありがとうございました(拍手)。
 なお、こういうのを、私たちの会のリーフレットが受付にありますので、うちの息子をカンボジアに行かしてみたいなんて思う方がいらしたら、どうぞお持ちください。
 また、うちの方は「半世紀組」と言いまして、50歳以上の人も大歓迎しておりますので、どうぞいらしてください。本当に、年とった者と若い者と一緒に作業ができるというのはとってもうれしいです。
 釘を打つときに、金槌の首持って打ってるんで、二谷英明さんが副会長で「釘っちゅうのは君ねえ、そんな首持ったって駄目で、肘で打てって」言うと、「これで打つんですか」って。肘で打ちそうになるのです。
 それが最後には、本当に素晴らしい輝いた顔で、みんなでカンボジアの子のためにブランコを立ち上げてくる。ブランコを立てるのがボランティアかって言うんですけど、みんなで力を合わせて、白木からやって、ペンキ塗って、全部で穴も開けて作っていくっていうのは大変な作業なんですね。実体験のない学生たちが力を合わせて、それができたっていうこと。
 それから先輩が作ったものを見て、それも全部メンテナンスしてくるっていうこと。そういうことは素敵で、どうぞ「俺もやってみよう」とか「私もやってみよう」というお母様役の方がいらしたら、どうぞこれを持ってお帰りください。よろしくお願いします。
ありがとうございました(拍手)。

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