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07.1943-45年噴火では、幼児1名が窒息死、家屋や農作物も大きな被害を受け、土地の隆起により昭和新山が形成された。

 【区分】
第1期 有珠山の歴史(2000年噴火以前について)
1-01.有珠山について
2.有珠山の過去の噴火
【教訓情報】
07.1943-45年噴火では、幼児1名が窒息死、家屋や農作物も大きな被害を受け、土地の隆起により昭和新山が形成された。
【文献】
◆昭和18年(1943年)12月28日、有珠山でふたたび地震がおこり始めた。翌1944年にはいると、震源はしたいに東麓の地下に集中し、地盤の隆起が始まり、4月中旬からは隆起の中心がフカバ部落に移り、地震も激しくなった。このため近くの鉄道(胆振線)は再三世こわたりレールを東側へ移動せざるを得なかった。地震は6月22日には1日で250回も記録された。
6月23日、フカバ西方の東九万坪の畑地から水蒸気爆発が始まった。7月2日からは爆発は激しさを加え、10月末までに十数回の顕著な爆発があり、火山灰(Us-Ia)の堆積量は火口から1kmで厚さ数cmにたっした。地盤の隆起もつづき、もとの海抜120~150mの畑地は、海抜250mほどの屋根山(潜在円頂丘)となった。11月中旬、屋根山中央部の環状に配列した爆裂火口群の中心から、ピラミッド状の新溶岩があらわれ始めた。1945年9月には地震が少なくなり、溶岩円頂丘の成長も止まって、海抜406.9mの昭和新山が生まれた。円頂丘溶岩の大部分は天然レンガの被膜に覆われ、しばらくの間は夜間に破れた被膜の窓から赤熱した溶岩が点々と見られた。1943~45年の活動は水上・石川・八木により詳細に観測された。また昭和新山の成長の様子は、当時壮瞥郵便局長であった三松正夫によって観察され、日誌とともにミマツダイアグラムとして公表されている。1943~45年の活動も、1910年の活動のように、マグマが山麓へ上昇してきたため地震の発生が先行した。長期にわたり地震、地殻変動、水蒸気爆発といった推移をたどったため、住民の適切な避難によって災害は最小限に留まった。ただし降灰中に幼児が1名窒息死したほか、降灰と地殻変動による農地・山林・道路・鉄道の被害は免れなかった。[門村浩・岡田弘・新谷融『有珠山~その変動と災害~』北海道大学図書刊行会(1988/6),p.231~233]
◆1943年12月28日から地震が継続し、1944年1月末から南東側山麓で土地が隆起した。4月以降、隆起は次第に北方へ移動して、地割れ地震が激しくなった。6月23日にはついに噴火を起こして火山灰や砂を噴出した。さらに7月2日、3日に爆発して多量の噴石、火山灰を放出して農作物に大きな被害を与えた。7月11日の活動では負傷者1名、家屋損壊、焼失、農作物に被害がでた。8月26日の活動では幼児1名が窒息死し、家屋が焼失した。その後10月31日まで数回の爆発があった。この間も地面の隆起は継続し10月下旬には高さ100m以上の小山に成長した。その後大きな爆発もなく噴気を上げつづけ12月20日には黒色の溶岩の尖峰が出現した。昭和20年に入っても尖峰は隆起を続け9月には山頂が406.9mに達して上昇を停止し昭和新山と命名された。[『平成12年(2000年)有珠山噴火災害報告』北海道開発局室蘭開発建設部(2000/12),p.35-36]
◆太平洋戦争のさなか、日本の敗戦が濃厚になってきた1943(昭和18)年の暮れも押し迫った12月28日、有珠山は33年振りに前兆的な地震活動を開始した。それから半年の間、前兆活動を続け、1944年の6月23日に麦畑の平地から噴煙を上げはじめたのである。これが世界的にも珍しいベロニーテ型火山としての「昭和新山」形成のはじまりであり、この溶岩ドームを生成する天地創造のドラマは、地震・噴火・大地の隆起を繰り返しながら、1945(昭和20)年9月まで続いたのである。この時の噴火情報は、戦時中でもあり、厳しい報道管制が行われ、新聞・ラジオによる報道は一切が禁止されたのであるが、噴火活動の全経過は火山学者や地元の壮瞥郵便局長三松正夫らによって記録されていた。特に、三松の『昭和新山生成日記』は、「ミマツダイヤグラム」とともに世界的に高い評価を受けていることは周知の通りである。
約1年9ヵ月にわたった「昭和新山」造成の火山活動は、活動継続時間が長かったこともあって、一般的には3期に分けて考察されている。
(1)先噴火期(1943年12月28日~44年6月22日)
12月28日夕方から、有珠山一帯で有感地震があり、特に洞爺湖温泉街で激しく、避難する人もいた。30日には洞爺湖温泉街の西縁の断層が動いて水道が断水した。翌44年に入ると、震源は次第に東麓の地下に集中するようになり、東麓の柳原では地盤が隆起しはじめ、4月までの隆起重は16mに達したとされる。4月の中旬から隆起の中心はしだいに北側へと移動しはじめ、5月までに壮瞥町字フカバ集落(当時は「九万坪」と呼ばれていた)では、最大で50mも隆起した。このため、集落は壊滅し、近くの鉄道(胆振線)は路線維持のために、頻繁にレールを東側に移動せざるを得なかったのである。
(2)爆発活動期(1944年6月23日~同年10月31日)
6月23日午前4時頃、フカバ集落西の「東九万坪」から水蒸気爆発が始まり、爆発は7月から激しさを増し、東方の苫小牧・千歳方面まで降灰があった。降下火山灰は火口から1km付近で数センチの厚さで堆積した。また、火砕サージも発生し、北方の洞爺湖畔を襲って保安林や家屋を破壊し、一部を焼いている。50数戸にのぼる家屋損害のほとんどは壮瞥町に集中している。8月の爆発では、唯一の犠牲者である2歳の子供が窒息死している。
この最初の爆発から約4ヵ月の間に大きな噴火だけで17回、7力所の火口をつくった。そして、噴火活動前、海抜150mほどであった「九万坪」の麦畑は250m余も隆起し、饅頭型の屋根山(潜在ドーム)をつくり、付近の地形を一変させたのである。
(3)溶岩円頂丘形成期(1944年11月1日~45年9月)
火山活動は末期に入り、10月31日の大きな爆発を最後に、時々小規模の爆発が繰り返されるだけとなった。しかし、水蒸気は相変わらず濠々と噴き上げ饅頭型の屋根山を覆っていた。このため、10月半ばには蒸気の中に、屋根山中央部の環状に配列された爆裂火口群の中心から、黒色の岩尖(とがった岩)が現れたのを確認していたが、それが隆起し続けるピラミッド状の溶岩塔であると判明するのは翌年(1945年)1月のことである。この溶岩塔の1日隆起量は平均で0.6mであったが、日によっては1~2mの押し上げとなっている。一方、屋根山も膨張を続け、1945年の春から東部が急速に隆起しれ溶岩ドームは、しばらくは噴煙に包まれ、夜間は破れた皮膜の窓から赤熱した熔岩が点々と見られた。1945年9月、地震が少なくなり、溶岩ドームの成長は止まった。爆発期に出現した火口群も大半は埋没して姿を消した。こうして、海抜406.9mの昭和新山が誕生したのである。
この噴火による被害は、当時(1944年)の壮瞥町の事務報告によると、田畑や山林の永久荒廃が152ha、数年で復旧できると思われる田畑が223ha、家屋の焼失倒壊が14戸、移転を必要とする家屋は62棟、農作物被害面積は2,164ha、そして被害総額は182.3万円であったとされている。なお、昭和新山は、この自然の造形美を功利者に渡さないために、5人の所有者から三松が2万8千円で買い取り、昭和28年には天然記念物に指定されている。
[小田清「北海道・有珠山噴火の歴史と周辺地域の概要」『開発論集 第71号』北海学園大学開発研究所(2003/3),p.8-9]

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