東日本大震災(平成23年3月)
「また、お菓子が作れる」と気づき、冷静さ取り戻す~不安は「団や住民のため」と棚上げ~
宮古市 50代 男性 消防団員
インタビュー日:2012年9月9日
地震から1か月は、ほとんどの消防団員に従事してもらったような感じでした。団体職員さんとかは招集がかかると仕事のほうが優先になりますが、活動から離れるのは最初はごく少数でした。最終的には、半数近くの人たちが仕事に戻り、そうすると残った団員でやらなきゃならなくなります。
消防団員も、皆さん家族を持っていますから、早く自立するために、仕事に復帰して仕事を優先してもらいたかった。2か月近くたつと、民宿が流されて仕事そのものを失った人も、仲間のガス水道屋さんで使ってもらうとかして、皆さん仕事そのものにはつけるようになりました。
私は、菓子店を経営していたのですが、家も店も工場も津波で流されました。5月中旬に仮設テントの商店街が建つことになって、宮古のほうで復旧している同業者が「自分たちがつくったお菓子をおまえのところで売っていいから」って応援してくれたんです。応援されていながら、「俺、いつ自分で本当にお菓子がつくれるようになるのかな」と思い始めたときに、すごい焦りはあったんだけれども、だんだん冷静に考えるようになりました。
その前までは、分団員のためとか、住民のためとか、あとは何かに置きかえていたんですね、自分のことじゃなく。何かそれが足元をすくわれたような感じがあった。考えてみたら「復帰してねえのはおれだけだな」と。自分はいつから仕事が本当にできるようになるんだろうなと、不安に駆られながら、対応していかなきゃならない。
仕事の基盤になる道具を全部流された漁師の人たちが、漁業の道具そろえていかなきゃならないのと同じように、工場を建てたくても、工場を建てる場所が浸水域だからそこには建てられない。なので、土地を探すとこから始めなきゃならない。そんな自分のことを考えるようになったのは、2か月過ぎてからでした。
1年後、消防分団長仲間から「人の車借りて仕事して、消防団やってて、家を建てねばなんねえけど、金はねえし場所もはっきりしねえので、どうしたらいいか。あのとき(津波で)流れていたらよかった」という話を聞いて、ショックでした。その人も「黙って仕事をやっているときが一番気が安らぐ。何もしないでといると、逆に滅入ってしまう」と言って活動を続け、いまは落ち着いておられます。消防団員にとって、仕事は団活動のエネルギーでもあるんですね。
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