津波防災の日講演会2012

「津波防災の日 講演会 2012」実施報告書

 平成24年11月5日(月)実施報告書
 日時 :平成24年11月5日(月)会場 :ベルサール神保町
 開演 :13:30~16:45

『稲むらの火』の語り 崎山 光一 氏 和歌山県広川町語り部サークル責任者

崎山 光一 氏1

皆さま、こんにちは。ただいまご紹介をいただきました、和歌山県広川町から参りました崎山と申します。実は今日が津波防災の日になったのは、私どもの村を舞台にした『稲むらの火』の基本となった11月5日を元に、津波防災の日と定められたのでありますけれども、これは旧暦でありまして、新暦になりますと12月24日になりますので、若干違いがあります。

今日こうして田舎者を東京にお招きいただいて、稲むらの火を聞いていただけることを光栄に思います。光栄に思いますが、話の基本は災害ですので、喜んでお受けしたわけでもないし、ばんばんざいで飛んできたのでもないのです。どうしても、稲むらの火の話を皆さんにご理解いただいて、次の災害の時に、一人でも少ない被害者、被害ゼロということを目指したいので、どうぞよろしくお願いいたします。


さて、稲むらの火というのは東京や関東の皆様には聞き慣れないことかと思われます。かつて、昭和12年から22年の間、国定教科書、五年生の国語の教科書に載った作品として『稲むらの火』という作品がありました。私どもの地元では以前から、昔『稲むらの火』を勉強されたのが非常に印象に残っていると、お年寄りの方が仰っておりました。

この『稲むらの火』には原作がございまして、ラフカディオ・ハーン、日本名「小泉八雲」が明治29年の明治三陸地震による津波の直後に、その三陸津波と安政南海地震の津波の時に活躍した濱口梧陵の話をミックスして執筆したものです。『A Living God』、生ける神・生きている神という名の作品はもちろん、英語の小説です。日本人が知る以前に、これがアメリカに渡り、世界中に知られていたようです。

崎山 光一 氏2

広川町の隣町、湯浅町出身の中井常蔵さんという小学校の先生が師範学校の時代に『A Living God』を読みまして、これはそのうち、子供たちに伝えたい話と思っていたそうです。昭和9年に文部省が教材を募集した時に、中井先生は「これや!」ということで、小学生にもわかるように日本語に翻訳して書き改めて応募したのが『稲むらの火』の原作であります。中井先生が応募した時の題名は『津波美談』でしたが、『稲むらの火』に変えられました。ですが、中身は一字一句変えられなかったということです。皆さんの手元に配布させていただいているものが、かつての国定教科書の『稲むらの火』の部分だけをコピーしたものです。あとでゆっくりご覧いただければと思います。

これはただごとではないという最初の言葉で始まるように、普段感じていないような大きな地震があったということで――主人公は濱口五兵衛となっていますけども、本当の名前は、濱口儀兵衛。後に濱口梧陵と名乗るようになりましたので、私どもは濱口梧陵さん・梧陵さんと呼ばせていただいております。濱口家は関東に縁がありまして、千葉県の銚子で今もやっておりますヤマサ醤油の当主でございます。濱口梧陵はヤマサの七代目当主。 現在の社長さんは十二代の当主であります

この濱口梧陵さんが本宅を広村に置いて、仕事の時はほとんど銚子・江戸で暮らしており、広村と江戸を行き来していたわけですが、たまたま安政津波の際に広村に帰っていて、津波に遭遇したわけです。物語の中では、高台に住む濱口五兵衛が津波を察知して、稲むらに火をつけて「庄屋さんのところが火事だ!」と思わせてみんなを呼び寄せ避難させたということになっています。実は濱口家は村人と同じ高さのところにありますし、広村に高台のような地形のところはないので、恐らく三陸のリアス海岸の景色の描写を合わせたんだろうなと思います。小泉八雲の『A Living God』は三部作になっていますが、前半の方で津波が東の海から押し寄せてきたという表現があります。紀伊半島の海は西側にありますので、まったく方向が逆ですので三陸をイメージしているように思います。


昭和22年から教科書に載っていなかったのですが、かつて広川町の教育委員会で私が仕事をしていた時、皆様のご記憶にもあると思うのですが、日本海中部地震がちょうど昼前に起こって大きな被害が出ました。その日の午後3時ごろに、ある新聞社の記者さんから電話がありまして、津波のことで新聞社がごったがえしているので、稲むらの火の概略だけを聞かせて欲しいということでした。話をした後、この記者さんが電話を切る時に「ああ、あの子供たちもこの話を知っていたら、こんなことにならなかったかもしれないのに」と言って電話をお切りになりました。

と申しますのは、あの時、山の学校の小学生たちがバスで地震直後の海岸に到着して今まで見たこともないほど海底が干上がっているのを喜んで海に出たところ、これが津波の前兆現象、引き波の状態だったと思うのですが、そこへ津波が押し寄せて十数名の子供が犠牲になりました。

実はそれ以来、地震津波の専門家の間でもう一度稲むらの火の話を教科書に載せて、子供の頃に津波防災教育をした方がいいのではないかという話が出ていました。私ども広川町や、和歌山県の教育委員会が協議会を作って、教科書会社に働きかけようとしたのですが選定教科書の時代ですから、難しかった。昨年の改訂で64年ぶりに教科書に載ることになりました。小学五年生の国語の教科書には、関西大学の河田惠昭先生が書かれた『百年後のふるさとを守る』という題名で載っています。名前は変わりましたが、かつての『稲むらの火』を基本にして書かれています。

また、『百年後のふるさとを守る』という題名は、濱口梧陵の言葉から取ったものではないかと考えています。濱口梧陵は安政津波のあと、すぐに紀州藩に復興支援を手紙で求めたのですが、紀州藩からは何の返事もありませんでした。時は幕末。御三家といえども財政的にひっ迫していたでしょうし、紀伊半島全体・沿岸が被害を受けています。藩としてもそれどころではなかったのかもしれません。

今も広川町に残っています、国の史跡でもある広村堤防。こちらを改めて広川町の教育委員会が測量し直しますと、636メートルの堤防であり、高さは海抜5メートルあるいは6メートルのところもあります。この堤防は、「百年から百五十年に一回起こると言われている南海地震から、百年先も広村を守る」という目的の元、私財を投じて築造されました。これを濱口梧陵の言葉で申し上げますと、「百世の安堵を図る」。かつて、平成17年でしたか、NHKの『その時歴史が動いた』でこの話を取り上げていただいたのですが、その時の題名も「百世の安堵を図る」でした。

先ほど申し上げたように、この濱口梧陵の言葉を借りて、現在の教科書も『百年後のふるさとを守る』となったのだと思います。こうして『稲むらの火』が再び子供たちの防災教育に役立てられるという直前のことでした。去年(2011年)の3月11日に、あの大惨事が起きたのです。


5年前に〝稲むらの火の館〟という施設が出来ました。現在のヤマサ醤油が当時広川町に持っていた家屋敷を寄贈いただきまして、その本宅を濱口梧陵記念館、その後ろを土地が広かったもので津波防災教育センターの二つの施設を合わせて〝稲むらの火の館〟として運営しています。
この〝稲むらの火の館〟、去年から非常に大勢のお客さんが来られています。確かにあの津波を目の前で見せられたら、津波というものに関心を持たざるを得ません。それぞれのところで、それぞれにあった対策を立てなければなりません。実は〝稲むらの火の館〟の津波防災教育センターの中に、ちょっと面白い施設があります。広川町と和歌山県が共同で作った3Dシアターで、津波を疑似体験できるような映像を用意しています。〝稲むらの火の館〟の目玉だったのですが、この映像以上の津波が起こってしまったので、私たち関係者でこれをどう見学者の皆さんに説明したらいいのか頭を悩ませました。

去年からまた『稲むらの火』が濱口梧陵さんの行動として注目されております。夕方4時に地震が起こりまして、この『稲むらの火』の最初の台詞通り、梧陵さんは「これはただの地震ではない」ということを察知して、まず家族に高台に逃げるように言っておいてから、村人に避難を呼びかけて回りました。実はこの時、梧陵さんは津波に呑みこまれまして、あわやという場面がありましたが、九死に一生を得ました。皆が逃げている八幡神社に行ってみますと、まだまだ逃げ遅れている人がいるとわかりました。

(新暦)12月24日の夕方4時――安政南海地震の場合は津波第一波が来たのが40分後と言われていますから、4時40分頃の話だと思います。12月ですから、5時前になりますと暗くなってきます。そんな中を若い者に、たいまつを持たせて捜索にでたわけですが、さっきの津波第一波で流木に道を塞がれてこれ以上進むのは危険だということで、引き上げる時に目に留まったのが稲むらだったわけです。昔はもみの取り入れが終わってですね、わらをつみあげて、わらもむしろにしたり、今でいう雨合羽もわらで作っていました。草履なんかも。ですから、わらというのは米の次に非常に大事な資源であったわけです。このわらを保存していくものを稲むら、私どもの地方ではススキとかスズキというのですが、これに目が留まって、これに火をつけた。ですから『稲むらの火』の真実は庄屋さんが火事だと呼び寄せるのではなく、道明かりとして火をつけたのです。

昭和21年の朝方に発生した昭和南海地震、この時避難しようとして、おじいさんを荷車に乗せたりリヤカーに乗せて逃げる途中で、いくつかの稲むらに火がついていたという証言があります。梧陵さんの取った行動を思い出した広村の人が火をつけて、道明かりとしたのだと思います。

実は稲むらはもう、ありません。避難しようとする道路の両側には家が立ち並んでいます。M8.4の巨大地震が起こったらすべての街灯が停電するでしょうし、今の時代の方が条件は悪くなっているのではないかと心配しています。

そういうような状態で火を放って、梧陵さんは引き上げていきました。この日、二十四時間もない間にとった行動というのは、皆さんに参考にしていただきたいと思います。

捜索から帰ってすぐに、隣村の法蔵寺というお寺の蔵にある米を借り出してきて、すぐにご飯を炊いて、避難をしている人の夕食として握り飯を皆に配りました。今度はさらに近隣の村々の庄屋さんにかけあって年貢米を借り出しにかかりました。ただ、年貢米はなかなか貸してはくれません。年貢米の横流しなんかしたらもう、打ち首になりますから。これを梧陵さんは、「全責任はわたしが取る」と深夜までかかって説得して、借り出して、明日からの避難民の食糧にしたのです。

そのあとは被害状況の調査から始まって、今でいう仮設住宅を50戸建てたり、漁師には船を作って貸し与えたり、百姓には農具を作って貸し与えたり、隣町との間の橋が流されていたのを架け変えたり、現在の復旧・復興対策の全てを私財を投じてやったのです。現在のお金でいうと約5億を堤防に、仮設住宅等にかかった費用の15億も合わせると、合計20億の私財になります。もちろん一人ではなく、親族であるもう一つの濱口家も支援に加わっております。


今も残る広村堤防が、国の史跡に指定され、津波防災の一つの大きなシンボルとしてとらえられ、注目されております。この堤防を作った目的は、先ほど申し上げたように百年後の広村を守るということ。これが一番目の目的なのです。

実は、広川町は記録に残っているだけで過去八回津波に襲われております。安政津波のあと、村人は「もう命がいくつあっても足りない」と遠くの親戚や知人を頼って村を離れようという動きがでてきたのです。それを知った濱口梧陵さんは「これを放っておいたら村がなくなってしまう」と思いました。家も流され田畑も流され生活していく糧がないので、ともかく村人に仕事を与えることが必要だと、堤防の工事に被害にあった村人を雇って――男でも女でもお年寄りでも子供でも、「仕事に来られる者は皆来たらといいぞ」ということで、毎日500人くらいの村人が堤防工事に参加したといいます。日当は夕方帰る時に日銭で支払いました。これによって、被害にあった人々は生活の糧を得ることができた。ここに二つ目の大きな目的があったわけです。

東北の皆様も仮設住宅に入っていながら仕事がないと苦しんでいる訳ですが、梧陵さんの取った行動をなんとか参考に出来ないのかなとわたしは念願しています。なんとか、考えていただきたいなと思います。


わたしは普段ほとんどこの広村堤防で見学に来られる人に語り部として説明をしているのですが、小学生の皆さんにはもうくどいほど言っています。大人の人にも必ずといっていいほど言っています。普段津波の心配のないところに住んでいる人が殆どだと思うのですが、いつ旅行に行ったりして海岸に行くかわかりません。海岸にいる時に地震があったら大きな津波が来ると思って、ともかく高いところへ避難してください。

先程までの話は忘れて結構ですが、どうかこのことだけは忘れずに、家族の皆さん、知り合いの皆さんに伝えていただきたいと思います。子供たちも将来大学に行ったり、就職したり、海岸の近い場所に行くこともあるかと思います。大きな地震が来たら、大きな津波が来ると思って高い所に逃げて欲しい。


取りとめのない話で終わったし、まだまだ稲むらの火についてお話したいし、濱口梧陵さんの行動をもっと皆さんに知っていただきたいと思うのですが、時間がありませんので、これで終わりにさせていただきます。

どうもありがとうございました。


津波災害の学術的研究 目黒 公郎 氏 東京大学教授(都市震災軽減工学、都市防災マネージメント)

目黒 公郎 氏1

皆さん、こんにちは。ただいまご紹介をいただきました、東京大学の目黒です。今日は学術的な立場からということですが、災害を取り巻く環境全体を俯瞰して、これから我々が何をやらなければならないかについてお話ししたいと思います。

私たちが住んでいる日本は災害大国であり、しかも今は大きな地震が頻発する時期を迎えています。このような状況の中で、どんな防災対策をしなければならないのかが本日のテーマです。私たちが最終的に実現したいのは、災害レジリエンス(resilience)の高い社会です。レジリエンスについては後ほど説明しますが、これを実現するには、二つの重要なポイントがあります。一つは生活環境を支える施設です。この施設の災害レジリエンスが高くなければいけません。もう一つは住んでいる人々の災害レジリエンスの高さです。どちらがより重要かと言えば、後者の人の災害レジリエンスです。何故かといえば、教育によって災害レジリエンスの高い人々の住む社会を実現できれば、その人たちがやがては災害レジリエンスの高い施設を実現できるからです。

ではレジリエンスとは何かと言うと、まずは災害が発生しにくい環境を作ること、そして万が一災害が発生した場合には、しなやかに、速やかに、回復する環境を整備することです。防災におけるレジリエンスという言葉は、日本語では訳しにくい言葉です。国連のISDR(国際防災戦略)の事務局がこのレジリエンスという言葉を使いました。これを日本語に訳する時に私と京都大学のある先生がお手伝いしたのですが、なかなかいい言葉が見つからなくて、とりあえず「回復力」と訳しました。本来の意味は、「笹とか竹などが強風に対して、変形したり、いなしたり、避けたり、よけたりして、やり過ごす。そして風が止んだあとには、元の状態に戻って、決して自分が致命傷になるような状況には陥らない」状態です。ですから真っ向から抗するレジスタンス(resistance)とは異なり、上手く対処しながら致命傷を避け、素早く復旧・復興する――これが本来のニュアンスです。


目黒 公郎 氏2

ではまず、東日本大震災についてお話ししたいと思います。地震の当日、私はたまたま本郷で用事がありまして、本郷キャンパスの自分の部屋で、駒場の私の研究室のPCにリモートアクセスして仕事をしていました。この日は午後3時から学内で出席しなくてはいけない会合があり、そろそろ出かけようとしているタイミングでした。

私は緊急地震速報の一般利用に関する各種委員会の委員をしていたこともあり、駒場の研究室のPCには、サービスの開始以前から高度利用の緊急地震速報のシステムを導入していました。このシステムが突然起動しました。今から、その時の様子を見ていいただきますが、これは当時のビデオですので、実際に大きな地震が起こっているわけではないので、安心してご覧ください(図―1)。では始めます。今見ていただいているように、私は実際に自分が激しい揺れを感じる60数秒前には、宮城県の太平洋沖で地震が発生したことを知ることができました。この場所では、2日前にマグニチュード7.3の地震があったので、最初はその余震かと思ったのですが、マグニチュードがどんどん大きくなるので、「これは違う。ついに宮城県沖地震が起こった」と思いました。しかし、想定されていた宮城県沖地震はマグニチュードが7.5程度だったのに対して、さらにマグニチュードが大きくなるので、これはただ事ではないと感じました。大きな地震の後は電話が輻輳して使えなくなるので、家に電話しながら、自分の周辺の様子を確かめつつモニターの画面を見ていました。――映像を流しつつ。

図-1
図-1 私のPCに映し出された緊急地震速報
(遠距離でマグニチュードの大きい今回の地震は
緊急地震速報が最も効果的なケースといえる)

猶予時間が10秒になり、カウントダウンが始まったころには、私の部屋もかなり揺れ出しました。最終的に猶予時間がゼロになったときのマグニチュードが7.9だったことを鮮明に覚えています。この値は画面にも記載があるように第12報でしたが、その後また改訂され、最終的には8.1になりました。今見ていただきましたように、緊急地震速報の高度利用を入れておくと、自分の場所が激しく揺れる前に、ある程度の猶予時間を得られる可能性があります。

緊急地震速報がどんなものであるかを少し説明します。緊急地震速報は地震予知ではありませんが、ある程度遠距離の大きなマグニチュードの地震の場合には、猶予時間が極端に短い場合の直前予知と同様の意味を持つものです。日本は、国内に高密度に、高性能の地震計を多数設置しているので、どこかで地震が起こると、最寄りの地震計がまずP波を検知します。この時点から、約4秒間で、このP波を発生させた地震が、どこで起こった、どれぐらいのマグニチュードのものかが計算できます。地震の発生時刻と場所(震源)とマグニチュードの3つがわかると、各地で観測される地震動の揺れの強さと到達時間が計算できます。地震被害を及ぼす揺れは、P波の後にやってくるS波です。このP波とS波が到達する時間の差をPS時間(秒)といいますが、この値に×7ぐらいをすると観測点と地震が発生した震源までの距離(km)が求められます。最寄りの地震計が震源のすぐ近くにあったとしても、震源とマグニチュードの計算に4秒間かかりますから、最低でも4(秒)×7(km/秒)≒30(km)、自分を中心とした地面の中の半径約30kmの半球の内側で地震が発生した場合には、S波到達前に情報を出すことは無理なのです。しかし、それよりも離れている場所であれば、皆さんの場所にS波が到達する前に情報を出すことができる可能性があるシステムができ上がったということです。S波の到達時刻は、マグニチュードの大小に関係なく求められますが、マグニチュードが小さい場合は揺れも弱いので事前に揺れの到達時刻が分かっても実質的な意味はあまりありません。ある程度の距離が離れた大きなマグニチュードの地震の場合に、大きな意味を持つわけです。

今、このシステムは一般利用と高度利用という2通りのサービスが行われています。皆さんが特別の契約をしなくても、テレビやラジオ、携帯電話などを介して情報を受けるものが一般利用です。これは日本全体を200ぐらいのエリアに分けて、その各エリアで震度5弱以上の揺れが想定される場合に、震度4以上のエリアの人たちに情報を流すというものです。日本全体を200ぐらいに分けたエリアですから、広さとしては都道府県をそれぞれ4つぐらいに分けた程度です。それなりの大きさはありますので、震源に近い側と遠い側では、S波の到達時間に差が出てくるでしょうし、同じエリアの中でも地盤条件の違いで、揺れに差が発生しますので、一般利用の場合は「○○秒後に、震度△で」という数値の情報は流さないことになっています。ところで、東日本大震災の時に、東京では緊急地震速報を受けなかったという人がいるかもしれませんが、これは東京の震度が4以上の評価になっていなかったからなのです。NHKは全国区で出すので、NHKだけが出した理由はここにあります。

一方、高度利用は、利用者用の装置(デバイス)を契約に基づいて設置してもらいますので、利用者の位置、地盤条件や建物の何階かなどの詳細な情報を加味して、S波の強さと到達時刻を求めることができます。また情報を受けたい震度やマグニチュードも自由に設定できます。ですから、高度利用では「何秒後に、震度幾つで」の情報を受けることができるのです。先ほども申し上げたように、私は緊急地震速報の一般配信に向けた幾つかの委員会のメンバーをしていた関係もあって、一般配信の開始よりもずっと前から、高度利用のシステムを自分のPCにインストールし、マグニチュードを小さめに設定して、日本中でどんな地震が起こっているのか、緊急地震速報に問題はないかなどを見えるようにしていたのです。今回は、遠距離でかつマグニチュードが非常に大きかったので、あれだけ長い猶予時間を得ることができた訳です。

ただし、実際はマグニチュード(Mw9.0)の地震をM7.9とか8.1と判定してしまったことが、後々問題を生みました。気象庁マグニチュードは、地震動の最大振幅から求めるマグニチュードを採用していますが、この種の方法ではM8くらいからマグニチュードが大きくなれない、頭打ちになる問題があります。この現象を「マグニチュードの飽和現象」といいますが、これは断層の破壊が拡大しマグニチュードが大きくなっても、地震の揺れの最大振幅に影響を及ぼすのは比較的観測地点に近い場所の断層破壊であって、断層の破壊が遠い方に大きく広がった影響は、継続時間を伸ばしても最大振幅には大きく影響しないからです。この問題を解決するに、揺れの最大振幅からではなく、断層破壊のエネルギーを物理的に表現するモーメントマグニチュードや津波マグニチュードという頭打ちしないマグニチュードが新しく定義されて、今ではそれが一般的に使われるようになりました。気象庁もこの問題は認識していたのですが、マグニチュードの定義における速報性の観点と我が国の周辺でM9クラスの地震が起こることは考えていなかったことから、最大変位変換型の気象庁マグニチュードを継続的に使っていたのだと思います。


この地震の2日後の3月13日に、私はある知人を介して国家戦略室に呼ばれました。今後震災がどのように進展するか。それに対し、政府はどのように対応すべきかについて助言して欲しい、ということでした。3月13日と3日後の会合を踏まえ、私はまず、震災からの復興に関して、次のような提言をまとめました。まず初めに復興ビジョンとして、「将来の繁栄の礎となる創造的な復興」を掲げ、それを実現するに当たっての4原則をまとめました。4つの原則は以下のようなものです。最初の原則「被災地域の豊かで安全な生活環境を再興するとともに、日本の将来的課題の解決策を示す復興」は、被災地域の豊かで安全な生活環境の再興がもちろん第一だけれども、今回、被災された地域は、例えば少子高齢人口減少などの課題に関しては、日本の平均値よりも何段階か先行している地域である。だとすれば、その地域の復旧・復興は、遅れてやってくるほかの地域の解決策がそこに示されているような形で復興していただきたい。それを目指すべきだということです。

二つ目の「政府、自治体、企業、NPO/NGO、国民、そして被災地域の人々が連携し、知恵と財源を出し合う協調した復興」は、国と被災自治体と被災者が頑張ればいいというのではなくて、オールジャパンで知恵とお金を出そうということです。この理由は二つです。一つは規模が非常に大きいので、オールジャパンで対応しなければ無理だということ。そして二つ目は、これがより重要なのですが、防災力を高めるには実経験を踏むのがいいのはみんな知っています。しかし、時間や地域を限定すると、災害のデパートと言われる日本でも全員が実経験を積むことは無理です。この点を踏まえ、私は地震から2日後の会合で、最初に「この時点でこういう発言は大変不適切だと思います。しかし皆さんにぜひ認識していただく必要があるのであえて申し上げます。起こって欲しくなかったわけですが、今回、こういう大地震と巨大津波が発生し、甚大な被害が出ています。この災害への対応をオールジャパンで実施し、国全体でこれを学ばないと、近未来にやってくる首都直下地震や、東海、東南海、南海地震は我が国にとってぶっつけ本番になるということです」と申し上げました。つまり、今、ここに存在する災害現場を活用し、みんなでそこを支援する活動を介して、オールジャパンで体験を共有し、みんなの防災力を高めるために使うべきだ。それが被災地のためにもなるし、将来の我が国の防災力を高めるために不可欠であるということを伝えたわけです。

三つ目の「低環境負荷、持続性、地域産業再興に配慮した復興」は、そのままの意味です。

四つ目の「前提条件の再吟味に基づいた復興」は、想定外の○○という話ばかりになってきているので、前提条件のいちいち再吟味してから次に進もうという話です。


私が4原則と言ったのは、1923年の大正関東地震が引き起こした関東大震災の後に、後藤新平が提示した帝都復興計画を知っていたからです。後藤は岩手県出身で、もともとは公衆衛生を専門とする医師でした。伝染病対策などを進めていくと、結果として上下水道の整備の重要性に気づき、さらに都市インフラの整備からまちづくり、都市づくりにつながり、そちらでも大きな業績を挙げた方です。彼は1923年の関東地震の前に、東京市長として、当時の建築、土木、都市計画の若手を含めた専門家と、大日本帝国の首都としてふさわしい東京をどんなふうにつくり変えていくべきかの計画づくりを行い、幾つもの案を持っていました。その状態で、関東地震が起こったので、実際の被害の状態や分布を踏まえ、これと前に作っていた計画を合わせて、直後に将来の東京のあるべき姿としての帝都復興計画をぽんと出したわけです。帝都復興計画は、事前の検討があって初めて実現したということです。後藤は復興ビジョンとして、「復旧ではなく復興である」を掲げ、その下に次の4つの方針を掲げました。

まず最初に、「遷都はしない」と言います。これだけやられた東京のまちを見て、もう首都を京都にお返しした方がいいのではないかという話が出る訳ですが、それはしないと宣言するわけです。

2つ目は、「復興費に30億円をかける」と言います。この額は当時の国家予算が15億円程度ですから、今の感覚でいえば、150~200兆円かけるというスケールです。当然、政敵からのいろいろな反対意見が出て、最終的には6億円程度に縮小されるのですが、後藤はこれらを折り込み積みで、30億円といったのではないかと感じます。これくらい言わないと6億円も確保できなかったという意味です。

3つ目に、「欧米の最新の都市計画を適用する」と言います。そして4つ目に、「3の計画を実施する上で、大地主に不当利益は出させない」と言います。

以上の復興のビジョンと4方針、さらに後藤の強いリーダーシップの下、東京のまちが復興したのです。これで東京のまちは本当に大きく変わりましたし、昭和に至るまでその後に実施された都市計画も、後藤の帝都復興の遺産を活用して実現できたものが少なくありません。関東地震の後に、1923年当時のまちをそのままつくったら、今日の東京はとんでもないことになっていました。災害後は平時にはできない規模で、大きくまちを変えられる貴重な機会ともいえます。後藤はそのタイミングを使って、強いリーダーシップをもってまちを大きく変えたということです。今回の被災地等を見て、これだけのリーダーシップが発揮できているかというと、ちょっと残念な状況です。

災害はあって欲しくないものですが、起こってしまった場合には、今までのしがらみとか連続性を一旦断ち切って、大きな意味でまち全体を改善し、数十年後の未来像を描く意味で非常に重要なタイミングと言えます。このタイミングを失わないように、被災者の方々と協議し協力しながら、復興を進めていくことが求められます。


では東日本大震災の特徴ですが、この震災の第1の特徴は、非常に被災エリアが広いこと。これは災害対策基本法の想定を越えています。何故なら災害対策基本法では、市町村長がまず防災対応の責任を持つ。そのサイズを超えると都道府県知事、このサイズを超えると内閣総理大臣になるのですが、ここには大きなギャップがあります。今回もそのギャップの部分で対応が上手くいかないことが起こったし、それは想定されていたことでもあります。

次に、記録された地震動の大きさのわりには被害が少なかった。これは揺れの側とそれを受ける構造物側の両方の視点から説明する必要があります。まず揺れの側としては、最大加速度が非常に大きく、3Gの記録も得られています。重力加速度の3倍の大きさです。継続時間も長いので、本来は建物に与える影響は非常に大きなはずですが、周波数特性としては、0.5秒以下の比較的周期の短い、周波数の高い成分が多かった。この周期の揺れは、一般の構造物にとってはそれほど効かないものであり、それが幸いした。これが、1~数秒程度の周期になると、阪神・淡路大震災の時のように、木造建物や10階建て程度のビルに大きな被害が出たはずです。

一方、受け手側としては、この地域は大きな地震が高い確率で想定されていた地域なので、インフラ、公的建物などは耐震改修が進んでいた。また一戸建て住宅においては、雪国仕様・寒い土地の仕様は、関東以西のあまり寒くない土地の仕様に比べて耐震性が高いと言われています。何故か。積雪荷重を考えるので、柱や梁を太くする必要があります。しかし実際は、常時屋根に雪が積もっている訳ではないし、屋根に雪が載っている状態は危険なので、すぐに滑り落ちるように、屋根材としてはトタンとかスレートなどが使われます。これらは瓦屋根に比べてずっと軽いのです。結果的には、重い屋根を想定して柱や梁を太く丈夫なものにするけど、実際の屋根は軽いという状況になります。また冬の寒さ対策として、大きな窓ではなく、小さな窓で2重サッシュなどにすることで、結果として壁量が増える。壁量が多いのは耐震性を高める上で重要なポイントです。さらに雪がいっぱい積もったり、地面が凍結融解を繰り返したりするので、これらに対応するために、大きな強い鉄筋コンクリートの基礎を用いる。これらの1つ1つは直接的には地震対策を狙ったものではないですが、結果的には地震に対して強い構造物を実現していたのです。

次の地盤災害に関しては、切土・盛土した造成地盤や埋め立て地盤などで色々な問題がありました。また構造材ではなく、天井やインテリアなどの付属施設の被害の問題がありました。津波が引き起こした影響としては、人的・物的影響、長期化する影響、津波のハード・ソフト対策のプラスとマイナスの問題などがありました。これについては後ほどお話しします。

さらに直接的には激しい揺れや甚大な被害を受けたわけではないが、首都圏が受けた様々な問題もあります。これは今後の首都直下地震対策などを議論する上では非常に重要な課題だと思います。それから、原発事故の問題、政治経済、エネルギー政策、幸福感などのターニングポイントとなるほどの大きなイベントだと思っています。


この災害の直接被害は16.9兆円です。これに対してどんな対応があったのかについては、後ほどご紹介します。

災害は毎回違う様相です。今回の震災ですと、溺死、津波で亡くなった方が人的被害の92%。圧死には、家ごと津波で流される中で家が壊れて潰された方も含まれています。また、水に浸かって低体温死された方もおり、津波の影響が非常に大きかったことがわかります。

関東大震災の場合は火災で亡くなっている方が非常に多い。それから阪神・淡路大震災では建物の倒壊が最も大きな原因でした。ところで、関東大震災の延焼火災は揺れによる建物被害が拡大要因になっていたことが、その後の研究成果としてわかっています。耐震性を高めると地震の後の火災の問題は大幅に改善できるということです。


今後の防災対策を考える上で非常に重要なのは災害状況をきちんと想像、イメージできる人々を増やすことです。皆さん、考えてみてください。人間は、人類は、自分が想像できないことに対して適切に備えるとか、適切に対応するなんてことは絶対にできません。しかしこれまで防災教育と称して我々がしてきたことは、どんなことでしょう。簡単に言えば、「Aやれ、Bやれ、Cやるな」って言ってきたわけです。つまり、思考停止させてきたのです。だから未だに「グラッと来たら、火を消せ」などと、やる必要のないことをやろうとする。火は消さなくていいのです。震度5以上の揺れの際には勝手に消えます。近づいていって、鍋や釜で火傷したりする方がよっぽど危険です。

例えば、お母さんが台所で、ガス台の前で食事を作ってらっしゃる。こういう状態で緊急地震速報を聞きました。さあ、どうしますか? 多くの方は、また「火を消す」とおっしゃる。「火は消さなくていいんです。では、どうしますか」と聞くと、「テーブルの下にもぐります」とおっしゃる。「あなたの家のテーブルは、ガス台からどれくらい離れていますか」と尋ねると、「1.5から2メートルぐらいです」とお答えになる。そんな位置であれば、下にもぐっていたら、鍋が落ちて来るから、お尻とかに大火傷を負ってしまいます。言われてみれば、「あっそうか」と気づくのですが、災害イマジネーションが低いと、平気で間違った行動をとるわけです。では、本来はどうすべきなのでしょうか。

まずは、自分の身の安全を確保するためにガス台から離れていただきたいのです。と同時に、絶対にやらなければならないことがあります。それは何だと思いますか?大きな声で「地震が来るよ!」と叫ぶことです。お母さんしか緊急地震速報を聞いていない可能性があります。隣の部屋の坊や、二階のお父さんや娘さんは、聞いていないかもしれない。だから、緊急地震速報を聞いたら、誰もが大声で教えあうということが大切なのです。これは、自分の身の安全確保と同時に行うべき一番重要なことです。また他のメンバーは、それを聞いた時に、「どの空間にいれば、何をすべきか」を事前に皆で検討しておいて、さらに訓練しておくことが大事です。この訓練を繰り返すほどに、実際の場でうまく対応できる可能性が高まると共に、例えば避難する途中で「家具が倒れて来たら逃げられないな」、「そもそも家が潰れたらどうしようもないな」ということに気づき、結果的に事前対策が進む。そうすれば、緊急地震速報が間に合おうが、間に合わなかろうが、将来の被害は減っていく。こういう方向に持っていくべきなのです。


これから防災対策を考える上では、どんな対策を講じようが、常にプラスとマイナスの効果があるということを心に留めておいていただきたい。例えば、今回津波でやられた東北地方は、世界で最も津波対策が進んでいた地域なのです。世界中であの地域以上に津波対策の進んでいる地域はありません。結果として、津波浸水域の人口の約97%の人々は助かっています。これは他の地域の津波災害や当該地の過去の津波災害に比べて著しく高い値です。まずこの点に関して十分認識する必要があります。しかし一方で、地震の発生時刻は、真昼間の午後2時46分。最低でも海岸に津波が到達するまでに20分から25分の時間的な余裕がありました。それなのに、どうしてあれだけの方が亡くなってしまったのでしょうか。ここにも重要なポイントがあります。

例えば釜石や田老には、非常に大きな防波堤や防潮堤が用意されていました。釜石市の防波堤はギネスブックにも認定された世界最大のものです。田老町などは過去に何度も被災されており、被災後に受けた義援金は個人で使うのではなく、町全体を津波から守るために、田老の万里の長城とも言われる大きな防潮堤をつくっていました。1960年のチリ地震津波の時は、そのおかげで津波から完全に町を守りきったという経験をお持ちでした。そういう地域の人々だったのにどうして多くの方々が被災されたのでしょうか。ここにはハード・ソフト津波対策のプラスとマイナスの効果があったのです。まずハード対策のプラスの効果からお話しします。釜石にしろ、田老町にしろ、巨大な津波が押し寄せて、用意していた堤防を越えてしまって、内陸のまちがやられてしまった。被災状況を見たマスコミを中心に、「あんなに時間とお金をかけた施設なのに全然役に立たなかったじゃないか」という声があがった。しかしこれは間違いです。次の4つの点で大いに被害を減らしたのです。

まずは堤防を超えるまでに津波の海岸への到達時間を遅延させました。港湾技術研究所の調査によりますと、釜石市の防波堤は6分ほど遅延させています。6分間の遅延は、ものすごく大きな意味を持っています。津波にトラップされる(波に呑まれる)かどうか、ギリギリのところに大勢の人がいたわけで、その人たちにとっては大きな効果がありました。津波が堤防を乗り越えて滝状になると、そこで速度が急激に遅くなります。速度が落ちてから湾内や内陸に入るので津波の衝撃力が大幅に軽減されます。これが2つ目の効果です。また速度の低下に加え、防波堤や防潮堤によって津波の流入断面が小さくなることで、浸水深にしろ、遡上高にしろ、大幅にその深さや高さを低下させることに貢献しました。6~7割程度に落としたと言われています。当然の結果として、津波の浸水エリアが大幅に縮小されるので、被災したりトラップされたりする人々の数と失われる財産の規模は大きく変わったのです。これが3つ目の効果です。そしてもう一つは、堤防がそのまま生き残っていれば、引き波の際にダム効果で堤防の天端の高さからは急激に水が引かないので、ギリギリトラップされた人たちが泳いだり、瓦礫の上を伝わって逃げることができたのです。これら4つの効果は非常に大きく、仮にこれらがなかった場合には、もっと壊滅的な被害を受けていたことを、科学的・学術的に理解してもらわなければ困ります。

次に、ハード対策のマイナスの効果の話をします。これは高いハード対策と過小評価された津波警報が被害を拡大させた可能性が高いということです。気象庁は実際のマグニチュードは9.0であったものを、直後に暫定値7.9としました。日本の気象庁は世界で最も優れた津波警報システムを持っています。

これを持つに至った経緯をごく簡単に紹介します。1993年7月12日に北海道南西沖地震がありました。奥尻島という小さな島が震源のすぐ横にあって、地震直後の3~5分後に津波の第一波が来襲し、大被害を受けました。当時の気象庁の津波警報は15分くらいかかかりましたので、奥尻の人たちには間に合いませんでした。気象庁はこれを反省し、これまでとは異なった発想の新しい警報システムを構築しました。それは次のようなシステムです。まず日本の沿岸地域に影響を及ぼす可能性のあるマグニチュードや位置、メカニズムの異なる地震を、日本周辺で10万通り想定し、それらが起こった時に、各地の海岸に何分後にどれくらいの津波がやって来るのかを、事前にコンピュータでシミュレーションし、それらをデータベース化します。実際に地震が起きた時には位置とマグニチュードから、合致する地震時のシミュレーション結果をデータベースから取り出す。すなわち、その時点では計算しなくてもいい状況をつくることで時間を稼ぐシステムです。これによって地震の3分後に津波警報を出すことが可能になりました。

今回も、このシステムを使って地震の3分後には最初の情報を流しました。2時49分に第一報として流した内容は、「宮城県で6メートル、岩手県と福島県では3メートル」というものでした。この情報を津波の襲来を受けるまでの被災地の人々はどう受け止めたでしょうか。例えば、田老町の皆さんはどう思われたでしょうか。彼らは10メートルの防潮堤をお持ちです。「驚いたけれども、3メートルの津波であればチリ津波の時よりも低いし、防潮堤で十分防ぐことが可能だ」と思われたのではないでしょうか。その後、気象庁は検潮器等の情報を加味して、地震から28分後には、「宮城で10メートル以上、岩手県と福島県では6メートル以上」という情報を出します。しかし、この時には被災地の方たちは停電でその情報を聞くことができませんでした。さらに地震から44分後には、「太平洋沿岸海岸、青森県から千葉県まで全て10メートル以上」という情報を流すのですが、この時には岩手県や宮城県の一部は被災してしまっています。

大きなハード(堤防)対策を有し、それで過去に自分たちを完全に守りきったという経験を有する人たちに、過小評価された津波の情報が出たので、この状況がある種の安心感を生み、避難のアクションが遅くなった。という点でのハード対策のマイナスの効果があったと考えられるのです。

一方、ソフト対策のプラスとマイナスは何かと言うと、プラスとしては有名な「釜石の奇跡」といわれる事例です。釜石市には小中学校の児童・生徒さんが、合わせて2,926人、約3千人いましたが、この中で亡くなった者は5人です。この5人は当日学校を休んでいたお子さんと、地震の直後に親御さんが引き取りに来られたお子さんでした。それ以外の学校にいた児童・生徒は全員助かりました。

釜石市では私たち防災研究者の仲間である群馬大学の片田敏孝教授が、非常に立派な防災教育を実施しておられました。その中に〝避難の三原則〟というものがあります。被害の想定を信じないということ、災害の条件下で最善を尽くすこと、自分が率先して避難して周りに避難していない人がいたら、その人たちを一緒に連れて避難するということ。この「想定にとらわれるな、その状況下で最善を尽くせ、率先避難者たれ」という避難三原則で徹底的にトレーニングしていたのです。その中では、新しく防災の授業時間を作るのは難しいので、理科・算数・社会・体育などの各教科で、防災をネタとして使うことはできないかを考え、教材づくりを学校の先生方と一緒に一生懸命行いました。

たとえば算数の時間。太郎くんの家は海岸から何キロメートル内陸にあります。私たちの町ではこれくらいの津波が想定されています。津波は陸地を秒速〇〇メートルの速さで移動しますが、太郎くんの家に津波が到達するのは津波が海岸に到達してから何秒後でしょうか。

社会科で地域の歴史を学ぶ時間には、私たちの地域には色々な場所に大きな石碑が立っています。これらの石碑にはどんなことが書いてあるのでしょうか。一緒にいって写真を撮って観察する。すると「これよりも低いところには家を建ててはいけません」とか、「ここを波分けという」などと色々な教訓が書いてある。年代付きのこれらの石碑は、昔、長く記録を残す術のなかった先祖たちが、子孫に津波災害の教訓を忘れないように伝えたものだということを教える。

あるいは体育の時間に着衣泳、服を着せたままプールに入れて泳がせてみる。水泳が得意な子でも泳ぐことが大変なことを学ぶ。私たちの町には〇〇メートルの高さの津波が来る。逃げ遅れると、泳ぐことは困難であることを教える。

片田先生と釜石市の教育委員会、小中学校の先生方のこのような努力が「釜石の奇跡」を生んだのです。これがソフト対策のプラスの好例です。一方で、同じ釜石市で、次のような事実もありました。先程、この地域はソフト対策もハード対策も非常に進んでいたと申し上げましたが、市民の皆さんには見やすいハザードマップが提供されていましたし、その内容に関してもある程度の理解はあったわけです。釜石市で亡くなった方々の住所を調べると、ハザードマップ上で危険性の高い、過去に津波に襲われた地域にお住まいで亡くなった方は全体の3分の1です。残りの3分の2は相対的に危険性の低いと評価されていた地域、つまりハザードマップ上では危険地域以外の場所にお住いの方々でした。ハザードマップがセーフティマップ・安全マップのように使われてしまったのです。これはソフト対策のマイナスの事例といえます。

ですから効果的な防災対策を実現するには、ハード対策とソフト対策の両方を上手く組み合わせることが大事なのですが、その両方に常にプラスとマイナスがあることを忘れてはなりません。


防災対策を講ずる上では、まずは自分が生き残らなければいけなりません。自分が生き残らなければ、周りの人を助けることはできないのです。「自分→家族→地域・仲間→会社・組織」という順番になります。防災というと、どうしても「会社・組織」から考えがちですが、上位からちゃんと確保されていないと、無理であることをまず理解する必要があります。

それから襲ってくる順番にも注意が必要です。東日本大震災は私たちに津波災害の恐ろしさ、その対策の重要性を強く意識づけました。もちろん、これらは重要ですが、これが地震動に対する対策を相対的に軽視するものになってはいけません。

津波の危険性が高い所は、標高でいうと概ね20メートル以下、海岸線からの距離でいえば概ね5キロメートル以内、川に沿ったとしても被害の危険性があるのは、10キロメートルというオーダーです。しかし、それよりも内側にもっともっと広い範囲に激しい揺れが作用する地域があります。さらに東海・東南海・南海地震などの津波の危険性が高い地域においても、「地震の発生→地震動→津波や火災→そのほかの被害」の順番ですので、津波避難施設を一生懸命作ったとしても、津波の前にやってくる揺れで家が潰れたのでは、せっかくの津波避難施設も使用できません。元も子もないということです。この点に関してもご注意ください。


今、我が国は巨大地震が頻発する時期を迎えています。今後30~50年で、マグニチュード8クラスが4、5回、マグニチュード7クラスはその10倍起こるので、40~50回起こると思われます。これは物理現象、自然現象ですから、私たちは対処のしようがありません。この状況下で適切な対策を進めていかないと、今のままでは、全壊・全焼の建物だけで200万棟というスケールです。経済的な被害は200兆円規模。このスケール感がなくて、防災対策の話をする政治家や行政職員、研究者は話になりません。まずはこのスケール感を理解してもらわなくては困ります。

皆さん、リーマンショックは大変だったでしょう。あれが我が国のGDPのマイナスに与えた影響は約33兆円と言われています。今回の東日本大震災の直接被害が約17兆円です。首都直下地震が起こると、今後もっと大きな被害想定結果が公表されるでしょうが、現時点で我々が一般に得ている首都直下地震の被害想定でも、被害総額は直接・間接被害を合わせて112兆円で、この中で直接被害が約67兆円です。東日本大震災の直接被害の17兆円に対して国は、第三次補正予算までで11.6兆円の復興債を発行し復興予算を捻出しました。約7割です。もし首都直下地震の直接被害67兆円に対して同じ比率の復興債を発行しようとすると、47兆円になります。現在の税収を超えてしまいます。2025年くらいに我が国の借金が国民の預貯金を越えると言われる状況の中で、このような巨額の復興予算を捻出することは簡単ではありません。復興債を発行しても、国民や日本企業は購入できない状況を理解してもらう必要があります。


次に我々が災害のメカニズムをどのように考えるかいついて説明します(図-2)。何がインプットで、何がシステムで、何がアウトプットか、と考えます。インプットは、物理現象、自然現象としての地震時の揺れや洪水のもとになる降雨量などです。これらをハザード(hazard)といいます。このハザードが何らかのシステムにインプットされます。このシステムとは、たとえば構造物の被害を議論する人にはとっては構造物だし、組織の対応を議論する人にとっては組織、一般的な被害を議論する場合には対象とする地域の地域特性とか社会システムと言われるものです。この地域特性とか社会システムは、自然環境特性と社会環境特性で特徴づけられます。自然環境特性は皆さんすぐ思いつくと思います。「地形、地質、気候」などです。それ以上に重要なのが、実は社会環境特性で、これは対象地域のインフラの特徴は当然ですが、それ以外にも政治、経済、文化、宗教、歴史、伝統、教育など、その地域の人々の生活スタイルを決めるもの全てです。そこにハザードがアタックを仕掛けるわけです。そのアウトプットがあるレベル、閾値を越えると、それが初めて被害や災害、英語でいうダメージ(damage)だとかディザスター(disaster)という言葉に変わります。

図-2
図-2 災害現象の考え方

ですからインプットとしての地震とアウトプットとしての震災は意味が違うのです。日本人はこの使い分けが下手です。関東大震災や阪神・淡路大震災をあたかも地震のように言うでしょう。これらはすべてアウトプットであり、震災なのです。ですから時間・空間的に大きな広がりを持っています。兵庫県南部地震は1995年に起こりました。その震災である阪神・淡路大震災の開始も1995年ですが、その影響はその後もずっと続いています。人や地域によっては、何年も継続するわけです。ですから、1995年の兵庫県南部地震以来○○年はいいけど、阪神・淡路大震災から○○年という表現は本来は正しくないのです。

社会システムとしての自然環境特性と社会環境特性が決まった後に重要になってくるのが時間的な要因です。四季のある地域であれば、冬と夏では全然違うとか、ウィークデーとウィークエンドでも全然違う。一日のどの時間帯で発生するのかでも、全然違う訳です。例えば、早朝の発災と夕刻の発災では、その後に10時間の明るい時間が待っているのか、暗い時間が待っているのかでは、初期対応の条件はまったく異なってきます。このような災害のメカニズムを理解していないと、災害を適切にイメージすることはできません。

皆さんが今住んでいる地域が人工島でなければ、そこに千年前・一万年前住んでいた祖先が受けていただろう地表の揺れと、皆さんが今後受けるだろう地表の揺れは何も変わりません。ですがその祖先が受けていた被害と皆さんが今後受ける被害はまったく違うわけです。それは、インプットとしてのハザードが変わっているからではなく、千年・一万年の間に、私たちがシステムを変えたからです。ですから同じハザードでも、対象となる地域が変われば、被害はまったく違った震災になります。


では防災対策としてどんな対策があるのか。ここからが本題だったわけですが、ずいぶん時間がなくなってきました。今から濃縮して話しますので、皆さんついてきてください。

近頃、防災とか減災とか言いますが、それより遥かに高い概念として、「総合的な災害マネジメント」という考え方(図-3)が存在しています。

図-3
図-3 総合的な災害マネジメント

個別の防災対策は何百もあるわけですが、それらを対策の時期や効果を発揮するメカニズムなどに基づいて分析すると、7つに分類できます。まずは、被害抑止力(mitigation)です。これは、主として、構造物の性能アップと危険な場所を避けて住む土地利政策によって、そもそも被害を発生させないという努力です。次は、事前の備えで影響の及ぶ範囲を狭くするとか、影響の波及速度を遅くするとかの努力で、被害軽減力(preparedness)といいます。発災の直前に災害発生を予知して警報を出すことができれば被害を大きく減らすことができます。これが災害予知/予見と早期警報(prediction/early warning)です。発災直後にやるべきことは、被害が何処で発生しているのかを正しく評価することです。これを被害評価(damage assessment)といます。次は評価結果に基づいて、早期に対応すること(emergencydisaster response)です。ただこの対応は、人命救助だとか、最低限の社会機能の回復を目標としたものなので、被災地が元の状態やもっといい状態に回復はしないので、復旧・復興(recovery and reconstruction/renovation)が必要になります。日本語で、復旧は元の状態まで戻すこと、しかしその状態で被災したことを考えれば、これだけでは不十分なので、改良型の復旧という意味の復興が必要になります。

一般的に被害抑止対策から災害予知と早期警報までを「事前対策」、被害評価から復興までを「事後対策」と呼びます。これらの7つの対策を適切に組み合わせて、被害を最小化することが総合的な災害マネジメントという考え方で、これを実現するためには「情報やコミュニケーション」が必要です。図にもあるように、未だ起きていない災害に対して、それが生じた際の被害を予防し軽減するために、事前から事後までの最も合理的な諸対策を選択し、それらの進捗を管理する手段をリスクマネジメント(risk management)、起きてしまった事象に対して、与えられた状況、時間的・資源的な制約条件の下で被害の拡大を防ぐとともにそれらの影響を最小限に留め、迅速かつ的確な復旧・復興を推進させるための管理・運営の手段をクライシスマネジメント(crisis management)と言います。そしてそれぞれのフェーズでのコミュニケーションを、リスクコミュニケーション、クライシスコミュニケーションといいます。


では、これらの対策をどのように実現するのか?これが今からのポイントです。私たちが防災対策を講じる際には、無限の時間と無限の予算を持って始めることはありません。常に有限です。なので、必ず優先順位付けをしなければなりません。その時に通常使う指標がリスク(risk)です。リスクとは何かと言うと、ハザードとバルネラビリティの掛け算で求められます。ハザードは先ほど申し上げましたインプットです。これは「外力の強さと広がり×(かける)発生確率」です。一方、バルネラビリティ(vulnerability)は「脆弱性」と日本語には訳しますが、これは「ハザードに暴露(エクスポージャー:exposure)される弱いものの数」です。ここで重要なのは、例えば東京の街をヘリコプターで上から見た際に、「品質の高い建物が多いとか平均値としてはいいだろう」などと言っていないこと。バルネラビリティとは、それらの良さそうなものの裏に隠れて存在している弱いものの数だということです。何故なら、災害は弱いものいじめだからです。

ハザードとバルネラビリティの掛け算をすると、最終的には「起こった時の被害の規模×発生確率」になります。そうすると低頻度巨大災害は、頻発する小中規模災害と比べて、〝低頻度〟が効きすぎて、リスクとしては値が小さくなることがあり、対策の優先順位が低く評価されたり、事前対策ではなく事後対応による対策が選択されたりします。しかし、ここには落とし穴があるのです。

ここで言う落とし穴とは、リスクという概念が持つ適用可能範囲の問題です。リスクを指標として優先順位づけをしてもいいのは、その災害が発生した際に、被害の規模が自分の体力で治癒できる、復旧・復興できる規模の災害までということです。日本国の存続を前提として考えた場合に、起こった瞬間に自力での対応は不可能な規模の災害は、事前対策、主として被害抑止対策で発生する被害の量を大幅に小さくしておかないと、事後対応では復旧・復興できないのです。

このような規模の災害は、世界の歴史の上では珍しいことではありません。一番最近ではハイチの地震災害です。あの震災は、他国や他組織からの巨大な支援がない限り、ハイチのみの力では今後も復旧・復興はできません。事後対応で復旧・復興できるレベルを超えた災害が起こったからです。

我が国において、首都直下地震や東海、東南海、南海の連動地震を考えると、その被害規模は我が国が事後対応できるギリギリ上限か、アウトのレベルです。事後対応をスムーズに行うための対策をどれだけ講じていても、被害抑止力を高めない限り復旧・復興できないという意味です。

災害は、ハザードがバルネラビリティに出合った時に起きるといいますが、ハザードは通常は自然現象なので、地球温暖化などの例外を除いて、私たちがこれに手をつけることはできません。私たちが変化させることができるのはバルネラビリティであり、この脆弱性を低下させることでリスク、あるいはその結果として発生する被害の量を減らすことができるのです。


具体的な対策の実現においては、「自助、共助、公助」に対応する「個人と法人」、「そのグループやコミュニティ」、「国・都道府県・市町村の行政」の三つの担い手がいます。対策としては、主として構造物や施設で対応するハード対策と教育やシステム、制度などで対応するソフト対策があります。

以上をまとめると、横軸に被害抑止力から復旧・復興までの対策のフェーズと、縦軸に自助、共助、公助、それぞれにハード(H)対策とソフト(S)対策に分けると、3×7(復旧と復興を合わせれば6つ)のマトリクスができます。このマトリクスの各欄に、それぞれに当てはまる対策を具体的に書き込むわけです(図-4(a))。

対策基本法に基づいて、都道府県は都道府県の地域防災計画を、市町村は市町村の地域防災計画を作らなければいけません。しかし担当者の専門性が十分高くないことと財政的な問題などから、対象地域の災害特性や自治体の特性を踏まえた適切な地域防災計画が策定できていないのです。また、市民の立場からすれば、自助や共助が重要だと言われているのにもかかわらず、自分の住む地域の防災計画や対策を議論する場に参画できる仕組みになっていません。これは災害対策基本法の大きな欠点の一つです。

しかし、ここに示すようなマトリクスを用意し、各欄に防災対策を記入していくと、「自助」や「共助」にいかに多くの対策が存在するのかがわかります。行政の立場からすれば、早い段階から、市民やコミュニティに参画してもらったほうが合理的であるし、防災対策も推進しやすいことがわかります。


このような総合的な防災力を向上させる諸対策を効率的に実施していくためには、対象とする災害と地域の特性を踏まえて、与えられた時間と予算の中で、各フェーズの対策を適切に組み合わせて、それらを確実に実行することが重要です。またその際には、単に既存の計画の列挙で終わらないための方法論が必要となることは自明です。

これからその方法論について説明します。

①図-4(a)のように、地域防災対策の「あるべき姿」を実現するための目標とする対策【G : goal】
を明確に描きます。次に「ありのままの姿(現在までの取組み状況)」【P : present】の実態を同
様にマトリクス(M)の形式で表現します。

②「あるべき姿M」と「ありのままの姿(現状の姿)M」の差分=【G】-【P】が、これから「実
施すべき対策M」の内容となります(図-4(b))。

③②で得られた「実施すべき対策M」の各項目に関して、担当組織(責任組織)、実施に必要な予
算と時間、達成された場合の効果を付加します。この作業は防災関係部局の人だけではなく、現
業部局の人と行うことが重要です。同じ対策でも、対象とする地域によって、必要経費も時間も
大きく異なり、現業の人の協力なくしてはこの作業は簡単ではないからです。

④利用可能な予算と時間と③のデータとを比較し、与えられた条件の下で最大の効果を実現する対
策の組み合わせを抽出し、事業計画化していきます。その際には、対象地域で問題となる各種の
ハザードに対して、②、③と同様の作業を行い、これを足し合わせることで得られる「全体とし
て実施すべき対策M」を対象にします(図-4(c))。

⑤こうして抽出された効果の高い対策を一定期間実施し、その成果を定期的に確認すると、ありの
ままの姿が変化するので、この改善されたありのまま姿Mをあるべき姿Mから引けば、改善され
た状況下でこれからやらなければならない対策が判明するのです(図-4(d))。このようにPDCA
のマネジメント・サイクルを実行することで、合理的な進捗管理を行うことができます(図-4(d))。


当然ながら、上記の【G】、つまり地域の防災の「あるべき姿」を形成して行くプロセスにおいては、地域の住民やNPO、企業の関係者を巻き込んだ議論が必要になり、彼らの参画・協働の内容が「共助」や「自助」の対策項目として明らかになります。


地方自治体の防災関連部局の職員の専門性や災害イマジネーションはそれほど高くありません。そのような職員に対して、「あなたの地域を襲う災害特性と自治体の特性を踏まえて適切な防災計画やアクションプランを考えなさい」というと、彼らは何をやればいいかわからない状況になります。すると多くのケースでは、「先輩は何やっていたんだろう」と過去の担当職員がやったことを確認し、それに少し上乗せするような事業を実施します。このような対策は、お金やエネルギーをかけたところで、防災対策上の効果は非常に低いものになってしまいます。理由は他にもっと対策が進んでいない悪い箇所が沢山あり、弱い者いじめの災害は、そこを突いてくるからです。ですから重要なのは、全体を俯瞰した上で常に弱いところを補強していくことなのです。

それから公助を構成する「市町村、都道府県、国」の中では、災害対応においては市町村が基本的な責任を持たなければいけないことから、これまで市町村が自分たちの防災計画を立案する中では、公助の欄としては「市町村」のみを掲げ、災害対策を考えていたわけです。ゆえに、市町村の地域防災計画立案の基礎として行う被害想定では、自分たちの対応能力をはるかに超える規模の災害を想定することは困難でした。すなわち、南三陸町や大槌町のように、自分達の仲間の多くが津波で流されてしまう状況や活動拠点が利用できなくなってしまう状況、さらには首長までもが犠牲になってしまうような状態を想定できたかといえば、これは絶対にできなかったのです。

しかし今回の東日本大震災のような規模の災害までを対象に総合的な防災対策を講じていくには、市町村や都道府県は図―5マトリクスのように、担い手として上位の行政機関までを含めて対応策を検討していく必要があります。こうすることで初めて、市町村の立場からは、自分たちが対応できない部分に関しては、「ここは県に、ここは国にお願いする」と記載することが可能になり、想定する被害の規模を拡大できるのです。一方、都道府県は今までは市町村からのリクエストを待って、それに対して対応したり調整したりすることが自分たちの仕事だと思っていたかもしれませんが、市町村が対応できない規模の災害では、自分たちは待つのではなく、市町村に出向き対応を代行していかなければならないことに、気づくわけです。市町村、都道府県、国が、一堂に会し、同じマトリクスを用いて防災対策を検討することで、相互の重複や齟齬もはっきりし、全体として合理的な防災計画が立案できるのです。


時間が来ましたので、私の話はこれくらいにします。今日は、今後皆さんが、防災対策をしっかり講じていただきたいと思い、将来の災害による被害を最小化するために総合的な防災力をどのようにして向上していけばいいのか、その考え方と実践法について話をさせていただきました。

最後に二、三枚、まとめのスライドを読み上げます。

自分が地震で亡くなってしまう状況をイメージしてください。遺族や大切な仲間たちに、何を最も大切な教訓として伝えたいですか。私はこれが防災の基本だと思います。一般的に政治家は被災地で生き残った人々、つまり選挙で投票できる人々に注意を払います。しかしこの姿勢は防災の本質とは違います。有限な資源、エネルギーは災害が発生する前に、被災する人々を減らすためにまず使うべきです。被災地で将来発生するだろう人々のケアのために残しておくことを第一とするのではなくて、その人たちを減らすために事前に使っていただきたい。そのほうが、ずっと効率的に被害を減らすことができるし、被災した人々のケアを充実させることもできるのです。

私たちは自然災害の発生を阻止することはできません。しかし被害抑止から復興までの7つの対策をバランスよく講じることによって、その被害を大幅に減らすことは可能です。私たちは災害に強い社会を、災害レジリエンスの高い社会インフラや施設の建設と、教育によって災害レジリエンスの高い人を作ることによって実現できるのです。

皆さん、これから何をやらなければならないか。一緒に考えていきましょう。

今日はどうもありがとうございました。

図-4
図-4 総合災害マネジメントの推進方策
図-5
図-5 総合災害対策マトリクス(市町村・都道府県・国)

津波対策技術に関する新しい技術・研究 辰野 勇 氏 モンベルグループ代表

辰野 勇 氏1

皆さん、こんにちは。辰野でございます。タイトルは、アウトドアから学ぶ防災の心得です。先ほど目黒先生が想像する力が大事だと仰っていましたが、そういったことも含めてお話します。


僕たちのいうアウトドアとはこういうものです。1969年に登ったアイガー北壁という山です。それから川下り、これは黒部川の源流から日本海まで下った時の写真です。もちろんこんな馬鹿なことをしたのは僕が初めてだったのですけれど。これは15メートルの滝を飛びおりる時の写真です。何を申し上げたいかというと、要は危険な状況に自ら求めて入っていっているわけです。災害というのは求めて起こるものじゃないですよね。

アウトドアにリスクマネジメントは必須です。日帰りの登山でもリュックサックの中には懐中電灯が入っていますし、晴れの日の登山でも雨具が入っています。これは僕が怖がりだからなのですが、怖がりならこんな危ないことはやめておけばいいのですけれど、好奇心がそうさせるのです。いずれにしても、こういった危険な状況に自分を押しこんでいく変な癖があるのです。アウトドアとは自然の危険な状況に身を置くことだと思います。

これはグランドキャニオン、毎秒1,500トンの水が出ております。これがどれくらいの量か想像できないくらいの相当な水量でしたけれども、黒部ダムの観光放水が毎秒10トンですから、150倍の水量となりますと、とんでもない水量です。これを3週間くらいかけて下りますが、実は僕はまったく泳げません。子供たち相手に川遊びをしていると、すぐ子供たちにいじめられてしまいます。でも1,500トンの川下りが出来るのは、ライフジャケットをつけているからです。逆に言うといくら泳げても、こんな状況だと泳ぎなんかまったく役に立たない訳です。

これらのことを前提として頭に入れてください。


辰野 勇 氏2

震災の話をさせていただきたいと思います。1995年、1月17日。阪神・淡路大震災。

阪神・淡路大震災が起こった当日、僕の住んでいた大阪でも相当揺れました。すぐに現地に入りました。友人も大勢いたので、その人たちの救出と、不幸にして亡くなられた方の搬出……瓦礫の下から引っ張り出しました。何生(なんしょう)かかっても見ることはないだろうという数の、ご遺体を見ることになりました。ご遺体を引っ張り出し、それを被災地の死体の安置所へと運びました。当時、学校の体育館には全部、死体が置かれていましたから、そこにお連れする訳ですけれど、実際には置くところがない。5か所くらい探して、ようやくご遺体を置かせていただきました。遺体がですね、全部、毛布も掛けられていない状態で並べられていました。一つの体育館の中に、何百体という遺体が安置されていました。

それを見てあまりにも心が痛み、ふと思い出したのが、僕らが若い頃に使っていた寝袋です。モンベルができるずっと前、登山装備は非常に粗末なものでした。ベトナム戦争や朝鮮戦争で亡くなられた米軍の兵隊さんを沖縄まで寝袋に入れて搬送してきて、そこで棺に入れ替えて本国に送り返していました。そこで不要になった寝袋(我々は放出寝袋と呼んでいました)を安く買い求めました。血糊がついているようなもので、英語では「ボディバッグ」と呼ばれています。それをふっと思い出して会社に連絡をしたら、約2,000個の寝袋が用意出来るとのことなので、すぐ用意させて、亡くなった方をお入れしようとしました。

ところがその晩、自宅にいったん帰ろうと車で走っていましたら、道の両脇で瓦礫を燃やしながら暖を取っている被災者がおられるのを見て、亡くなった方には申し訳ないけれど、生き残った方に使っていただこうと思い、2,000個の寝袋を配って回ったわけです。

野宿されていましたから、テントを約500張り用意させていただきました。ちょうど1月の28日の日付が入っていますので(震災が発生してから)少し後になってからですけれども、当時まだ壊れた家の周りにテント村みたいなものが出来ました。ここで随分、お役に立てたのではないかと思います。とはいえ、被災の状況から考えると我々一社でテント・寝袋を用意できる量にも限りがあります。ですがこうした寝袋やテントの支給で、アウトドア業界、アウトドア用品というのは非常に役に立つとわかった訳です。

当時、まだインターネットは今みたいに整備されておりませんでしたから、A4の紙を一枚取り出してそこへ、とっさに〝アウトドア義援隊〟という名前を書きまして、ヒト・モノ・カネ――今でいうボランティアという洒落た言葉はなかったのですが――人手・義援物資・義援金、何でもいいから集めようと呼びかけました。

阪神・淡路大震災のときは、六甲道にあるモンベルの店舗も被災しました。ここを拠点に、配って回ろうということで、活動していきました。今回の東日本大震災もそうですけれど、支援活動をする時にまず経営者として考えなければならないのは、「始めるのは簡単だが、どう収束させるか、どれくらいやるのか」ということです。当時は2週間、徹底的にやろう。会社の活動を一旦休止して、全社をあげて被災地の支援にあたろう、という姿勢で取り組みました。大阪から神戸まで道が寸断されていましたから、集まった義援物資は海からレジャーボートで運びました。そこで痛感したのが、いかに支援活動をしていくか、非常にロジスティックスが大事だということでした。登山というのはまさしくロジスティックスの最たるものですから。支援活動は2週間と思っていましたが、結局一ヵ月かかりました。アウトドア用品や経験というのは非常に役に立つと、実感しました。


去年の3.11。残念ながらこの日はどうしても抜けられない仕事があって、大阪から現地に入れなかったのですけれども、大阪と東京営業所から部課長クラスの人間を3名、現地に走らせました。1日遅れて僕も出ました。まだご遺体もどんどん搬出されていました。

当社は宮城県の仙台に直営店が3店舗あります。一つは仙台港にありまして、まさにまともに津波を受けて被災しました。幸い社員はそこから3キロメートル走って逃げまして、助かりました。ちょっと山手の仙台泉のショッピングモールにも店がありましたけれど、地震の大きな揺れで、モールそのものが閉鎖状態となりました。モンベルの仙台の旗艦店は青葉通りと国道に面したところにあります。この建物は元々が銀行のビルでして、作りがしっかりしていたため、ビルそのものは壊れませんでした。けれども、店内はひっくり返った状態でした。ここにまず支援本部を置こうということで、店の中を片付け始めました。駐車場があるのですが、ここになかなか品物が搬入できない。

一方で福島の原発の事故が非常に心配でした。今もそうなのですが、当初はなかなか収束しなくてですね。しかし、広島や長崎で被爆した国にも関わらず、いかに放射能に対して無知であったか、その時、嫌というほど思い知らされました。支援本部は福島からわずか90キロメートルしか離れていませんでしたので、社員を支援に向かわせるにしても、原発でまた爆発が起きたら彼ら自身が大変なことになるおそれがありました。

そこで考えましたのが、蔵王という山を越えた裏側に位置する、山形県の天童市に拠点を移すことでした。ここにミツミ電機という上場会社さんがありまして、使われていなかった工場を急きょお借りすることができました。ここに本部を移して、品物をどんどん集めていきました。オムツ、ノンアレルギー食品、粉ミルク、食材、米。とにかく仕分けが大事です。仕分けをしないと現地に持っていっても、必要な物資を必要な方に届けることが出来ません。

現在76店舗を全国に展開しておりまして、今回はそのレジカウンターに「毛布一枚、カップラーメン一箱、なんでもいいから持ってきてください」と呼びかけて、それを集めて被災地にお届けする――こういう作戦で始めて、続々と全国から物資が寄せられてきました。

ここには、天童市のすぐ近くにお住いの小学生のお嬢さんも来てくれました。お母さんに手を引かれて朝、ここへ通ってきます。寒い中、ずっと仕分けの仕事をしてくれます。この時、お母さんに、「ありがとうございます。こんな場を用意していただいて」と逆にお礼を言われました。僕は一瞬、ちょっと戸惑いました。彼女いわく、女性や子供は被災地に入れないので支援は難しいけれども、こういう場所であれば少しでもお手伝えさせてもらえる。こういう経験を子供にさせてやることができたと。

この時、我々企業というのは、ただ単にお金を出して支援をするだけではなく、もちろんこれも大事なことだと思いますけれど、同時に「支援をしたいけれども、どうしていいかわからない」という方にそういった場を提供することが出来るのだと実感しました。


女川の話です。ここでは、小さい車に積み替えて義援物資を運びました。女川病院は2階まで水が来たそうです。僕は岩登り、山登りをやるものですから高さの感覚がよく理解出来る。見た瞬間、40メートルの津波が来たなという感覚でした。事実39.5メートルと発表がありまして、自分の見た尺度はそんなに間違っていなかったなと思いました。

別の場所ではビルが横倒しになっています。2階建てのビルではなく4階建てのビルが横倒しになっています。押し波引き波で倒れていると。これは凄い……僕はずさんな工事じゃないかとその時は思いました。ただ、そうではなくて、ここにちゃんと杭があって、液状化で浮き上がったところを津波に襲われているのでひとたまりもなく、基礎も折れてしまっているという状況なのです。

まだ屋上には車がかかっている、バスも引っかかっている。気仙沼ではタンカーが打ち上げられて火災が起きている。そんな状況でした。体育館のような大きな避難所では早い時期から自衛隊などの炊き出し等の支援が入りました。ですが山間地で小さな規模で避難されている方々には、なかなか手が差し伸べられていなかったので、我々は重点的にそういった山間地の小さなグループを支援しようと考えました。


宮城県の登米の話です。ちょうど南三陸から20キロメートルくらい離れている、小学校の使われなくなった体育館をお借りして、前進基地として使用させていただきました。どうしても山形(天童市)から毎日出かけていきますと、2・3時間のロスがありますので、ここ(登米)を中心に支援活動をしました。

石巻の市街地は地盤が約70センチメートルから1メートル下がったということで、満潮時になると水が未だに上がってくるという状態でした。港小学校の職員室は瓦礫の山になっていました。この日も学校の裏で一人のご遺体を発見しました。臭いでわかりました。瓦礫をよけてみると、そこにご遺体が……そんな状況でした。そんな状況の中、救援物資を届けるのですけれども、ガソリンがなかったので、ガソリンを持ち込んで支援していきました。

最後に結局一月ほどの間に義援物資は300トン、2トンの引っ越しトラックで計算すると150台分の義援物資をお届けすることが出来ました。それから、ボランティア約2,000人。最後に約1,000万のお金が残ったので、皆さんに配って回りました。封筒に1万円を入れてですね、1,000人の方に。大抵は泣かんばかりに喜んでいただいたのですが、ある被災地の避難所では、まるで黒澤明の『隠し砦の三悪人』のような原風景がありましてですね。学校を避難所として、女性とか子供は奥で生活させて、入り口には小屋建てでドラム缶に火を燃やしてたき火をしながら、横には木刀やゴルフクラブのような物騒なものを並べて、怖そうな男どもが雪の中じっと守っているわけです。大抵、長老という方がいらっしゃって、その方とお話をするのですけれども。ある避難所に届けにいったら、「いや辰野さん。悪いけれど、うちは受け取れない」と。何故かと聞くと、「役所から受け取るなというお達しがあった。最近、お金を配って回っている奴がいるが、貰わなかった人が文句を言う」と。だからやらないでくれ、もらわないでくれと。僕は耳を疑いました。先ほどの目黒先生の話に少し共通するのですけれども、非常時においてどうしてそういう右へ倣えの発想が出て来るのか。丁重に引き下がりましたけれど、自転車を貰った人と貰わなかった人の不公平はよくて、1万円のお金の不公平を許せない――こういった理不尽な状況をいくつも見てきました。


義援活動している登米には復興住宅があります。自然エネルギーを活用した循環型の施設で、ここで福島の子供たちをお預かりするという活動をしております。我々が主催しているチャレンジアワードというものがありまして、今年は宮城県で活動するNPO法人「日本の森バイオマスネットワーク」が〝手のひらに太陽の家〟プロジェクトとして、子供たちを支援してくれました。2011年の受賞者に畠山重篤さんという方がいらっしゃいます。彼は有名でご存じの方もいらっしゃると思いますが、牡蠣を養殖しながら森を再生するという取り組みをしておられる人です。

大川小学校の話です。石巻、北上川の河口にある小学校で、全校生徒の70%、73人の子供が犠牲になりました。未だに4人の子供が見つかっておりません。今たまたま僕は奈良に住んでいるもので、東大寺の方をお連れして法要していただきました。遺族の方のお話を聞いて非常に辛い思いをしましたが、ある友人が何故、ライフジャケットを用意しなかったのかと言ったのです。それを聞いた時、僕はガーンと来たんです。頭をハンマーでたたかれたようでした。早速帰って、5分でデザインが出来ました。ではちょっとお見せします。


※実演開始。

座布団、その名も「浮くっしょん」。笑っていいんですよ、皆さん。大阪の会社はユーモアが欲しいので。浮くクッション、「浮くっしょん」です。どういうものかというと、普段はお尻に敷いているのですけれども。(装着を終えて)これで大丈夫です。7.5キログラムの浮力がありますから、船舶用のいわゆる桜マーク(の、救命衣)と並ぶほど、浮力は十分です。枕がついているので、失神しても必ず呼吸が確保できます。浮力が前にあるので、うつ伏せには絶対なりません。それから下にストラップがあるので、絶対に脱げない。僕は飛鳥やピースボードによく乗るのですけれど、ああいう大きな船に用意されているものはこういうもの(ストラップ)が用意されていないので、体は浮くかもしれませんが、すっぽ抜けする可能性があります。それからここにホイッスル。何故かというと、直後に入って生存者を捜すのですけれど、上にヘリコプターが飛んでいると、人の気配や声が聞こえないのです。そういった時に、声をあげられなければ、笛を吹ける。リフレクターがついているので、夜間でも光って、発見してもらうことが出来ます。

石巻の河口部に住んでおられた、プロの潜水ダイバーの阿部さんという方がおります。津波が来た時に、奥さんに――プロのダイバーですからライフジャケットを持っている訳です――着せて、自分も着用している最中に津波の黒い波がすぐそこまで迫ってきたそうです。一瞬、彼は死を覚悟したそうです。もう駄目だと。でも次の瞬間、彼が思ったのは、死んでも浮いていられる。亡くなってもいつかは家族の元へ体を届けてもらえる、その想いがあったというわけです。彼は結果、7キロメートル流されて助かった。1,500トンの水量でも相当な勢いがありますけれど、ライフジャケットさえつけていれば助かる可能性は高い。よしんば亡くなっても、浮いていられる。ちょうど、直後にいわゆる制服組――自衛隊、警察、消防の方々、彼らには頭の下がる思いがしますけれど、何日も経ったご遺体を回収するというこの作業たるや……これを早速作りまして、全国の高知県、三重県、和歌山県の知事に直接お話しして、装備してくださいと申し上げました。ハザードマップの中に入っている小中学校でさえ、ライフジャケットを用意してないのはおかしい。飛行機だって用意しているわけですから。ここまで水が来るかもしれませんと言っている土地で置いていないのはおかしいでしょう。もちろん、逃げることが一番ですよ。ただ、これはそんなに装着時間がかかりませんし、そのまま走れます。

クッションは子供たち用に可愛いデザインも用意しています。早速、四国吉野川で作家でカヌーイストの野田知佑さんと一緒に、子供たちに浮くっしょんをつけて川遊びをしてもらいました。今年も暑かったので大勢の人が水難事故で亡くなりましたよね。普段、川遊びや海で遊ぶときはライフジャケットを着用した方がいいです。これ(写真)は足が浮いていますよね。足が浮いているのが非常に大事です。足が下にあると瓦礫に引っかかってトラップされてしまいます。こういった子供たちの川遊びにも使ってもらうということで、今ようやく1万個くらい配布しました。何十万人と想定される津波の被害者を考えるとまだまだ足りません。


お時間がございませんので少し紹介しましたけれどこれでお話を終わりにさせていただきたいと思います。ありがとうございました。


津波対策技術に関する新しい技術・研究 長谷部 雅伸 氏 清水建設株式会社 技術研究所 主任研究員

長谷部 雅伸 氏

清水建設の長谷部と申します。本日は津波防災に関する最新技術ということで、少しタイトルを大きく構えすぎたなと反省しているところです。先ほど目黒先生のお話にもありましたように本来、津波防災は社会システムも含めたものを考えなければならないのですけれども、我々建設会社は建設関係の技術の最前線に関わっている者として、開発する立場の人間として、お話できればと考えております。

本日の内容ですけれども、ご覧いただくような3つのテーマでお話したいと思います。まず初めに、三次元津波遡上シミュレーション。どのように津波を予測するのかという話です。それから、津波BCPビル――津波避難ビル、アーチ・シェルターについて。最後に、津波に強い町づくりの新たな提案、グリーンマウンド。この3つについて、お話しさせていただきたいと思います。


まずは、三次元津波遡上シミュレーションについてお話させていただきます。津波発生のメカニズムは、既にテレビや新聞などでよく報道されていますように、プレートとプレートの境界で地震が起こる・その時にプレートにズレが生じる・それがそのまま対面を上方向に跳ね上げることで、沖合いで津波が発生する・というメカニズムでございます。沖合いで発生した津波は、外洋の非常に深いところでは時速700キロメートルのジェット機並みの物凄い速度で津波が進んでいきます。それがどんどん、沿岸部に近づくにつれて水深が浅くなってまいります。そうすると津波の速さはどんどん、遅くなります。その代わりに、津波はどんどん高くなっていきます。たとえば沿岸部で、おおよそ10メートルくらいの津波であれば、遅いといいましても、時速40キロメートルと自動車並みの速度で津波が陸上を襲います。その一連の様子はこのように、地震発生直後のテレビなどでもこうした映像がよく流れたと思います。たとえば、この南海トラフですね、日本の東海・東南海といった辺りで地震が発生した場合、どのように津波が沿岸部を襲うのか。今年の8月、政府で津波想定が出されましたが、そのデータを我々もいただきまして、このような再現計算を試みてみました。今お見せしたシミュレーションは、あくまで広いエリアです。その広いエリアで津波がどう伝わるか。実際に津波が起こった時に、その全貌は目で見て確認するのは難しい。そこで先ほどお見せしたシミュレーションを使って、その全容を把握する。それを元に津波対策を考える、ということになっております。

平野部街区での津波遡上の様子

我々が震災以降、新たに開発したものとしましては、今お見せしたスライドではあくまでも平面的な津波の伝わり方をシミュレートしたものですけれども、もっと三次元的に実際の動きをリアルに再現する方法として、三次元津波シミュレーションを開発しました。先ほどお見せしたような平面的なシミュレーションと比較して、立体感を持った三次元的な計算手法を使いますと、非常にコンピュータのパワーを要します。計算に要するメモリや時間が膨大になるため、今回お見せするシミュレーションの例では東京工業大学のTSUBAME2.0をお借りして、計算しました。こうした高性能のコンピュータを使うことで、今まで三次元ではこういう6キロメートル×(かける)6キロメートルといった広い範囲を計算するのは非常に難しいものがありましたが、これが出来るようになりました。尚、この街区はあくまでも仮想のものでございます。

左側が開けた平野部の街区、右側の方がリアス式海岸のような複雑で急峻な地形を想定したものとなっております。計算するにあたっては、このような地形を計算機の中で再現する必要があり、さらにこの計算領域の三次元空間を、ブロックを積み上げる形で再現します。建物の近くでは、津波が渦を巻いたり、せり上がったりします。ですので建物の周りは非常に細かな解像度で再現する必要があります。計算させた結果では、今沖合いから津波がどんどんと、やって来るという状況でございます。白っぽくなっている部分は、海が盛り上がっているところです。初めは、このように海岸から高い津波が到達します。平野部の方ではそれほど津波が高くはならないのですが、障害物が無いので内陸の方にどんどん津波が進行します。このような様子は、被災地の映像でも見ることが出来ますが、シミュレーションによって、もっと大きな視点でその様子を確認することが出来るようになります。

海岸線とほぼ平行に津波がやって来るという状況を今回は想定しているわけですが、陸上に上がってから路地の端や建物の密集具合によって津波が通りやすい部分と、通りにくい部分が出てきます。ですから、津波の遡上する先端の部分は実際にはギザギザした形になり、非常に複雑な流れとなって街を襲います。

それから急峻な地形がある場合、海岸とは別の方向からも大きな波が来ましたように、複雑な地形によって思いもよらぬ方向から波が来るというような現象も、こうしたシミュレーションによって予測できます。また、三次元形状を計算機で再現することで、例えば鉄道の高架橋のように、下が津波を通過するような場所の再現も可能となっています。更に普段見ることの出来ない現象の例として、こちらにビルがあって、沖合いから津波が来るという状況を、ご覧いただきます。計算機上でこうした現象を再現することによって、建物の外側だけではなくて、建物の内側も確認することが出来ます。同時に建物にどういう力が作用するのかということもわかります。先ほど辰野会長のご講演にありましたように、3.11の津波ではビルが倒れるということも見られました。津波の大きな力が原因で、実際にどれくらいの力が建物にかかるのかというはまだまだわかっていない部分が多いのです。私どもとしても、こうしたシミュレーションを用いることで、建物などにどれくらいの力がどのような形で加わるのか研究しております。

津波は窓から流入してまいりまして、建物内で渦巻くように非常に複雑な流れとなります。以上、まとめますと、シミュレーション技術の意義というのは直接見ることが難しい、直接見ることの出来ないものを見えるようにすること。津波によって発生する力のように、直接計測することの出来ない数字を出すという点にあります。こうしたシミュレーション技術を用いて、津波に備える対策技術の開発に役立てていきます。


続いてこちらがアーチ・シェルター、津波避難ビルになります。それからグリーンマウンド。以下、この二つについてお話させていただきます。まず津波BCPビルとありますが、BCPとはBusinessContinuity Plan、事業継続計画のことで、より高度な機能を持たせた津波避難ビルです。こちらは10月に、私どもプレスリリースを出させていただきました。

3.11の建物被害を我々も被災地で現地調査してまいりました。多くの鉄筋コンクリート造のビルや、鉄骨造のビルなどは、ほぼ全てが建物の構造自体が持ちこたえている。ですけれども、内部が滅茶苦茶になっていて、内装材ですとか扉のような建具は殆ど流されてしまっています。建物の構造は持ちこたえていても、その建物を使うことが出来なくなっています。

それから東日本大震災で確認された津波の高さを基準として、新しい津波避難ビルを開発するにあたっては、地面から20メートルを設計目標にすると、3.11のエリアはほぼカバー出来るようになります。これを設計目標として、このような津波避難ビルを提案させていただきました。


この建物には約2,400人の方が避難でき、かつ3日間分の備蓄によって、その後も生活出来るように想定してあります。外側の壁と内側のビルというのは二重構造になっていまして、津波の力というのは外側で耐えるという構造になっています。この壁自体、水密性を持たせることで内部には浸水しないようになっています。この外壁にベランダが張り出していますが、こういう構造を設けることで、漂流物がたとえ衝突しても、壁に直接当たらないで、バンパーのような働きをする。外壁を補強するという役割を持たせています。外壁で津波や漂流物に耐えるというコンセプトですが、一階だけが凄く大きな力がかかりますので、ここだけは津波が通れるように、荷重を受けないような設計になっております。内部の建物、こちらは免震構造になっておりまして、地震の揺れに強い構造です。外側の構造は、平面タワーが楕円形となっていますが、その意味についてお話したいと思います。

アーチ・シェルターと我々は呼んでいるのですが、楕円の形とすることで、津波からの力を減らせることが確認できました。普通の四角い建造物ですと、平らな壁面にまともに津波が当たってしまいます。それに対して、楕円にすることで、流線形ほどではないにしろ、津波が横に逸れていきます。津波の力を2割削減出来るという計算を得ております。もう一つ、壁に曲面を持たせることで、面に作用する力を上手く外周側に伝達させてより強度を上げることが出来ます。平らな壁を作るよりも、壁を薄くすることが出来ます。こうした楕円形の形状を津波避難ビルに使用することにつきましてご説明します。

実験と、津波遡上シミュレーションで計算した結果ですが、四百分の一の、高さ10センチメートル程度の小さな模型を使って実験しました。波が立つ様子が計算機でも再現できております。さらに、実際に知りたいのは津波に作用する力です。実験ではこのビルのどの部分にどんな力がかかるのかを詳細に知るのは難しいので、シミュレーションを使って、より細かなデータを得ます。続いて壁面の構造解析をしました。こうした流体・構造シミュレーションを使って、このビルが20メートルの津波に耐えられるということを確認しました。また、アーチ・シェルターはこのように特徴的な形をしておりますので、ランドスケープ的な意味も含まれています。

続いて左側が同じ平面積の一般的なビルの1階の場合です。アーチ・シェルターでは1階の通り道を広く、階段を多く設けており、多くの方が避難してきても、スムーズに上の階に移ることが出来ます。一般的なビルでは階段の数がまず少ない、入り口が狭くてエントランスに避難される方々が殺到して、人溜まりが出来てしまいます。一方、アーチ・シェルターではそのようなことはなく、多くの人がスムーズに上に逃げることが出来るよう、プランニングに配慮しております。


最後にグリーンマウンド(人工的に設ける丘のこと)についてお話しいたします。内陸の部分には大型の避難型マウンド、少し画面では見にくいのですが海岸線沿いには小高い丘を沢山作ることで、津波が中に入って来るのを少しでも防ぐ役割を果たします。普通の堤防と比較してのメリットは完全に海岸を塞ぐのではなく、隙間を設けることで海からのアクセスをさほど阻害せず、町全体との景観上の調和を実現します。今日特にお話しするのが、消波型マウンドと呼ばれるものです。実際に津波を遡上させる効果があるのか、シミュレーションを使って確認した結果をお話しさせていただきたいと思います。

海岸の方向には同じ形のものが続いておりまして、細長く地形を切り出して計算してみました。ちどり型に小型のマウンドを設置することで、津波の到達範囲が小さくなっております。それからマウンドの後ろでも水の浸かる高さが低くなることが確認されました。

これまでの話をまとめますと、震災以降、我々(清水建設)はまず津波シミュレーションのような評価技術を整備し、それを踏まえて津波対策技術――津波避難ビル、町づくりの提案を技術的な裏付けをもって出来るものを開発してまいりました。今後もこうした新たな対策技術の開発を進めていこうと思っております。それとともに、今までお示ししたのはあくまでも提案の一例であり、実際にはその地域ごとに受ける津波の規模は変わってまいります。また、町それぞれに、様々なご事情がございます。そうしたものを勘案した、より地域の実情にマッチした具体的な津波対策の実現をお手伝いできればと考えております。


最後になりますが、被災地の一日も早い復興を祈念いたしまして、私の講演を終わらせていただきたいと思います。どうも、ありがとうございました。

所在地 〒100-8914 東京都千代田区永田町1-6-1 電話番号 03-5253-2111(大代表)
内閣府政策統括官(防災担当)

Copyright 2017 Disaster Management, Cabinet Office.