災害を語りつぐ 7‐内閣府防災情報のページ

よみがえった鎌原村~天明浅間山噴火(1783)

浅間山の麓にあった鎌原村は、1783年の大噴火で大きな被害を受けますが、村人は困難を乗り越え、村を立て直しました。

浅間山の噴火


群馬と長野の県境でいまも火山活動を続ける標高2560メートルの浅間山。この山が江戸時代の半ば1783(天明3)年に大規模な噴火をしました。この年の5月頃から山がゴロゴロと鳴り、噴煙が空高く上がり、火山灰がたくさん降り注ぐと、8月のはじめには本格的な噴火が始まります。火口から噴き出した高温の軽石や火山灰が火砕流となって山の斜面を猛スピードで流れ下りました。
\nこの噴火で麓にあった鎌原村は、熱い溶岩と山の地肌から削ぎ取られた岩などが入り混じる岩なだれの直撃を受け、村全体が埋まり、466人が亡くなりました。
\n岩なだれは浅間山の北側にある吾妻川に入り大泥流となって村々を襲い、田畑や家屋、そして人々を飲みこんで、利根川に流れ込みました。この災害では1500人もの人々が犠牲になりましたが、その亡骸は江戸川の川岸にまで流れ着いたといいます。そればかりではなく、空に高く舞い上がった火山灰は太陽の日差しをさえぎったため、天明の大飢饉の原因のひとつにもなったと言われています。

浅間山の噴火

発掘で見つかった2体の遺骨

1979(昭和54)年に鎌原村の発掘が行われました。村の小高いところにある観音堂へ続く15段の石段を掘り下げると、その下には更に石段が35段埋もれていて、その最下段のところで背負う人と背負われる人の格好をした遺骨が2体発見されました。調査の結果、2体の遺骨はともに女性で、背負われた人は45~60歳、背負う人は30~50歳、お互いに血縁関係がないことがわかりました。
\n当時、発掘に当たった専門家や村の人たちは、岩なだれから逃れようとお嫁さんがお姑さんをおぶって必死に高台にある観音堂を目指したものの、途中で力尽きてしまったのではないかと推測しました。
\n江戸時代には大きな災害に遭って家族を失っても、村を離れて生きることは大変困難でした。自分たちが生きていくためには村を蘇らせるしかありません。残念ながら、お姑さんを背負って途中で倒れてしまったように、その思いを遂げることができない人もいましたが、鎌原村の生き残った91人の人々は、新しい家族を作り、子孫を増やして、村を立て直すことを決意しました。
\n苦労を重ねた村人の結びつきは大変強く、30年後にはようやく家も畑も元の3分の1ほどまでに回復しました。村人たちは災害から立ち直った経験から、何事にも打ち克つ力を得たのです。

発掘で見つかった2体の遺骨

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