災害を語りつぐ 4

濃尾地震(のうびじしん)(1891)

1891年に岐阜県美濃、愛知県尾張地方を襲った地震で、多くの命が失われました。そうした悲劇を繰り返さないでほしいという思いが込められた「震災数え歌」が、今も歌い継がれています。

震災数え歌

「一(ひと)つとせ 人々(ひとびと)驚(おどろ)く大震災(おおじしん) 美濃(みの)や尾張(おわり)の哀(あわ)れさは 即死(そくし)と負傷人(けがにん※) 数知(かずし)れず」
この歌で始まる「震災数え歌」が、岐阜県大垣市の「濃尾地震100年記念誌」に記録されました。市内在住の方が親から聞いた数え歌を覚えていたのです。
1891(明治24)年10月28日の早朝、岐阜県美濃、愛知県尾張地方を突然、マグニチュード8.0の巨大地震が襲いました。この地震での死者は7,200 人を超え、14万を超える家屋が全壊。世界でも最大級の内陸直下型地震でした。
10番まで続くこの数え歌では、震災の恐ろしさが生々しく歌い込まれています。後に、“地震(じしん)にあえば身(み)の終(お)わり”(美濃・尾張)と掛詞になったほどでした。
「二(ふた)つとせ 夫婦(ふうふ)も親子(おやこ)もあらばこそ あれと言うまいぶきぶきと 一度に我(わ)が家(や)が皆倒(みなたお)れ」
「三(み)つとせ  見(み)ても怖(おそ)ろし土(つち)けむり 泣(な)くのも哀(あわ)れな人々が 助けておくれと呼び立てる」
続いて身近な人を助けようとしている様子も歌われています。
「四(よ)つとせ よいよに逃(に)げ出だす間もあらず 残(のこ)りし親子(おやこ) を助けんと もどりて死ぬとは つゆ知らず」
「五(いつ)つとせ いかい柱に押さえられ 命の危(あや)ぶきその人は やぶりて連れ出す人もある」
地震発生が朝の6時半過ぎ。朝食時で火気を使用している家庭も多く、火災により被害はより悲惨なものになりました。
「六(む)つとせ 向(むこ)ふから火事(かじ)じゃと騒(さわ)ぎ出す こなたで親子(おやこ) やつれあいや 倒(たお)れし我(わ)が家(や) ふせこまれ」
「七(なな)つとせ 何(なん)といたして助けよと慌(あわ)てるその間にわが家まで どっと火の手が燃(も)え上がる」
「八(や)つとせ 焼(や)けたに思えどよりつけず 目に見て親子(おやこ)やつれあいや 焼(や)け死ぬその身の悲しさや」

過去の教訓を活かす

この数え歌で伝えたいのは震災の恐ろしさだけではありません。歌の締めくくりには、ボランティアによる救援活動や、日赤などの医療・救護活動への感謝が述べられています。
「九(ここの)つとせ ここやかしこで炊(た)き出しを いたして難儀(なんぎ)な人々を 神より食事を与えられ」
「十(とお)とせ 所(ところ)どころへ病院が 出ばりて療治(りょうじ)は無料(むりょう)なり 哀(あわ)れな負傷人(けがにん※)助け出す」
この歌には、悲惨な状況を後世に伝え、二度と同じ悲劇を繰り返さないでほしいという思いが込められています。そして、震災の様子とともに災害時の対応のすべてが七五調で書かれていて、数字のごろ合わせで覚えやすいように作られています。ラジオもテレビもない時代、人々は世の中の出来事を覚えやすい数え歌などにして広く世の中に伝えようとしました。この「震災数え歌」が歌い継がれることにより、私たちの子孫もそこから多くの教訓を読み取り、防災対策に活かすことができるのです。

※負傷人(けがにん)は、この数え歌の中での読み仮名です。

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