災害を語りつぐ 2

エルトゥールル号事件(1890)

1890年に和歌山県の潮岬でトルコの軍艦が台風により難破した際、村人が献身的な救援活動を行いました。それがきっかけとなり、日本とトルコの間に固い絆が生まれました。

村をあげての救援活動

和歌山県の潮岬は日本でも有数の「台風銀座」として知られています。岬の突端、大島の樫野崎には白亜の灯台がそびえ立ち、そこから望める太平洋にはごつごつした岩礁が連なっています。普段は穏やかなこの海が、今から120年以上前の1890(明治23)年、オスマン帝国(今のトルコ)の親善使節が乗った軍艦エルトゥールル号の海難事件の現場となりました。
9月15日、エルトゥールル号は台風シーズンの真っ只中、帰国に向けて横浜港を出航しました。その日の午後から風が強まると、夜半には大波を被り、船のメインマストが折れ、エンジンが停止し、流されるまま岩礁に打ち付けられて沈没してしまいます。海に投げ出された船員が、命からがら樫野崎の灯台に泳ぎ着きましたが、助かったのはわずか69名。500名余りが死亡する大惨事となりました。
灯台守は負傷したトルコ人に応急手当を施し、大島村の村長に事件を知らせます。村長は自ら現場で救援活動の指揮をとり、救援に駆けつけた村人は生存者を「カゴ」や「戸板」などに乗せ収容先に運びました。住民は総出で衣類を持ち寄り、サツマイモや卵、大切なニワトリまでも食料として提供しました。身体が冷えないよう、村人が懸命に温めたとも言われています。
事故から20日後、69名の生存者全員が、日本海軍の軍艦でトルコに送られ帰国しました。そして、生存者たちは、帰国後、自国でこの話を後世に伝えました。
大島村では、亡くなったトルコの人を丁重に埋葬し、その後慰霊祭を定期的に行うようになりました。

助け合いの精神

時は下って、この海難事件から95年後の1985(昭和60)年にイラン・イラク戦争が勃発します。イラクのフセイン大統領は「3月19日20時以降、イラン上空を飛ぶ飛行機は民間機であっても安全を保証しない」との声明を出したため、各国はテヘラン在住の自国民を緊急脱出させるため、急遽、軍用機や民間機を派遣しました。しかし、当時の日本では自衛隊機の海外派遣が出来ない上、日本の民間飛行機もテヘランには寄航しておらず、飛行機の手配ができなかったため、テヘラン在住の日本人は途方に暮れてしまいました。
刻々と時が過ぎるなか、トルコが日本人のために飛行機を増発する決断を下します。
「エルトゥールル号遭難の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救援活動を、今もトルコの人たちは決して忘れていません」
テヘラン空港にいた215名の日本人全員がイランから無事脱出。タイムリミットの約1時間前でした。国を越え、時を超えた「助け合いの精神」が両国の友好の絆を深めたのです。

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