過去の災害に学ぶ33

1947年9月 カスリーン台風 その3

かつて東京湾に注ぎ込んでいた利根川は、水害対策や流域開発のために行われた利根川東遷事業で、江戸時代に千葉県の銚子方向へ流れるように河道の付け替えが行われた。
しかしながら、カスリーン台風により生じた氾濫流は、元の川筋に沿って流下し、首都圏に甚大な被害を及ぼした。

文:清水義彦(群馬大学大学院工学研究科教授)

利根川の破堤と首都圏氾濫

利根川の決壊口付近の被害

昭和22年9月15日午後9時頃、埼玉県東村(現・加須市)の利根川(新川通地先)では、堤防が決壊する恐れが生じて、必死の水防活動(堤防上での土のう積み)が行われた。しかし午後10時には、越水が膝までの水位となって水防ができなくなり、栗橋(埼玉県)の利根川水位が最高水位に達した16日0時20分頃、新川通地先の右岸堤防が延長100mにわたって決壊した。
決壊口付近では濁流の勢いが激しく、民家が次々と流失し、屋根の上にすがりながら助けを求める人々や、流れに飲み込まれた牛馬の光景は、とてもこの世のものと思えない悲惨さであったと伝えられている。
大利根町では死者12名、行方不明6名、栗橋町で死者18名、行方不明1名など、決壊地点に近い町村が人的被害の全体の半数以上を占めている。

利根川右岸(新川通地先)での堤防決壊
(国土交通省利根川上流河川事務所)

氾濫流の流下による被害

利根川の氾濫流は、東に江戸川、西に荒川・大宮台地に囲まれた低平な中川流域を流下した。
これは、かつて利根川が東京湾に向かっていた川筋であり、そこは乱流した河川の氾濫原である。洪水が運んできた土砂は、氾濫によって堆積して微高地(自然堤防)を作り、その背後には、氾濫水がとり残されて湿地(後背湿地)が生まれる。やがて後背湿地は水田として活用される。こうした沖積平野がもつ地勢は洪水氾濫によって作られている。
利根川の氾濫流は、幾つもの支川や堤防、微地形(地形図では判別しづらい微細な地形)に特徴づけられて南下した。堤防に沿って流れるときもあれば、堤防によって一時的に堰き止められることもある。そして、高まった水位に耐え切れなくなった堤防が一気に壊れ、下流に大きな被害をもたらす。それは、利根川という大河がもたらす大流量の氾濫結果でもある。一方、自然堤防の上に建てられた集落では、難を逃れたものも多く、低平地での水害から身を守る住まい方がそこにはあった。
16日午前5時頃、栗橋町の全域が水没、同日午前8時30分頃には行幸村(現・幸手市)と桜田村(現・久喜市)が満水、翌17日午前2時頃には氾濫水が東武野田線の盛り土を突破した。
18日午前5時頃には、吉川町(現・吉川市)、越ヶ谷町(現・越谷市)に達し、午後7時頃、東京都北端にあたる葛飾区水元小合新町の大場川桜堤が6mにわたり決壊する。桜堤は、徳川時代より江戸への氾濫水を止める防衛線で、これを破った氾濫水は葛飾区、江戸川区、足立区に流れ込んで被害を拡大した。
20日午前3時頃には、中川堤防を破って亀有(葛飾区)を満水にさせたが、同日午後2時頃、江戸川区船堀の新川堤防に到達したところで、氾濫流は、ようやく停止した。その結果、葛飾区の全域と江戸川区や足立区のほぼ半分の地域が浸水した(図1)。
わが国最大の流域面積をもつ利根川がもたらした氾濫は大流量で、付け替えられた利根川の川筋(注)から離れ、元来の姿にもどって流れたことによるものだ。
その利根川固有の事情は今も変わっていない。堤防は、洪水に耐えられれば良いが、耐えられないときには、高い堤防ほど大きな被害をもたらす。現在の利根川堤防は、10mを超える高さとなっていることも知っておきたい。
そして、この大河が氾濫をもたらすことになれば、その被害は決して想定外ではないことをカスリーン台風の教訓として学びたい。
(注)千葉県銚子から太平洋に注ぐ現在の流れ。江戸時代の東遷事業によって行われた。

葛飾家屋浸水状況(国土交通省利根川上流河川事務所)

図1 カスリーン台風での利根川氾濫流の流下過程
(現況の地盤特性での氾濫シミュレーションは、
国土交通省利根川上流河川事務所HP に掲載されている)

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