過去の災害に学ぶ28

1960年5月24日 チリ地震津波

南米・チリの巨大地震で生じた津波は、 日本にまで到達することは予想されておらず、完全な不意打ちとして日本に襲来しました。

その1 不意打ちへの対処

1960年5月24日の早朝に、チリ津波が来襲した。このとき北海道から沖縄まで2~3m、高い所で5~6mの津波高となり、総被害額358億円を生じた。当時の国家予算一般会計は1兆6千億円、国土保全費520億円であったから前年の伊勢湾台風被害(1365億円)に引き続く、沿岸での大災害となった。

ほぼ1日前にチリで地震が発生した事は気象庁にも知られていたが、津波が日本に到達するとは予想されていなかった。日本の津波予報は三陸地方を対象として1941年に始まり、1952年には気象業務法により全国を対象として実施されるようになってはいたが、近地津波のみが考慮されており、遠地津波は想定外であった。1586年から2010年2月のチリ津波までの424年間に、南米沿岸で発生し日本に到達した津波は20例であり、そのうち10例は日本沿岸で50㎝以下であった。今年のように2、3mとなった津波は1960年以前には2例のみであったから、30m、40mにも達しうる近地津波に比べ注意を惹かなかったのは無理からぬ事であった。

最大は第3波位で生じ、第1波に気付いてから1時間ほどの余裕が持てたのは幸いであった。朝早い漁師達や徹夜の消防関係者等が気付き、警告を発して、避難につながった。東南海地震(1944年)、南海地震(1946年)の記憶も新しい三重県、和歌山県などでは、一般人が異常な引き潮で津波と判断して警告した所もある。高知県須崎では異常干潮を津波の前触れと判断した巡査が消防分団の幹部らと話し合い、水防法では市長が発令すべき避難警報を、独自の判断で午前5時にサイレンを吹鳴したため、住民の殆どは裏山に避難し、6時過ぎに襲来した大津波でも浸水被害も最小に食い止められた。

各地でサイレン等で危険が通告されたが、折角の情報が生かされなかったのは、岩手県大船渡湾奥の地域である。ここは、波長の短い近地津波では被害を受けにくい場所として認識されていた。昭和16年の大火で都市区画整理がなされて以後急速に発展した商業地区であり、転入者が多く、無経験者が多数であった。一応安全地帯と見られており、毎年行われる津波避難訓練にも極めて消極的であった。職業柄、夜遅く朝も遅い生活が普通の人々である。最初のサイレンが魚市場のものであったため、魚類水揚げの合図と誤認した。その他のサイレンも、近火信号と津波避難信号(3秒吹鳴・2秒中断)が同一であったため判断が難しく、気象庁からの情報が無い状態では、津波避難にはつながらなかった。こうして第2波が来襲し、53名の犠牲者となったのである。

いずれにせよ、正式な津波警報が出されたのは、津波到達の後であった。

これを契機として遠地津波に対する国際協力が始まり、ITIC(国際津波情報センター)と気象庁とは密接な連携を保っている。

首藤伸夫(東北大学名誉教授)

発生後24時間、日本各地で最大波の生じた頃(越村、2009)

宮城県女川駅付近の高台に避難した人々
(チリ津波合同調査班:1960年5月24日チリ地震津波に関する論文及び報告、13頁)

所在地 〒100-8914 東京都千代田区永田町1-6-1 電話番号 03-5253-2111(大代表)
内閣府政策統括官(防災担当)

Copyright 2017 Disaster Management, Cabinet Office.