・198501:1985年(昭和60年) 地附山地すべり災害
【概要】
(1)被害の概要
地附山地すべりは、昭和60年7月26日午後5時ごろ、長野市西方の地附山南東斜面に発生し、山麓部にあった老人ホーム松寿荘や湯谷団地を襲い、埋没・全壊55棟の被害を出した。特に松寿荘では、特別養護老人のうち40名が土砂に破壊されつつあった同荘に取り残され、うち14名は救出されたが26名は不帰の人となった。
○地すべりの特徴
・地附山地すべりの崩壊源発生位置は、地附山南東斜面の中において古い地すべり・崩壊により周囲よりも斜面後退の激しい部分であった。
・破砕作用と断裂にそう地下水の浸透による風化作用の進行・軟弱化により地すべり・崩壊が発生しやすくなり浸食・斜面の後退が進行した。この中には変異途中で停止し安定化した部分があったと考えられ、今回の地すべりの主崩壊源はそのような部分にあった可能性がある。
表1 被害概要
表2 主要被害額
(出典) 地附山地すべり記録誌編集委員会編『復旧への足跡: 地附山地すべり対策事業の記録』平成元年3月。
(2) 表3 災害後の主な経過(島根県の取組状況) 昭和60年 昭和62年
1)計画立案の考え方と経緯
○被災地は、長野県企業局が整備した住宅地であった。
○当初、被災者からの意向も踏まえ、1)原形復旧、2)山側の一列目の宅地復旧は諦め、下方の2列の宅地を再建、3)埋没地域はそのまま押え盛土として将来宅地等として利用する、という3案を考え、地すべり対策上、市道災害復旧、都市施設復旧事業の対象範囲等について検討し、2)が現実的であると判断した。しかし、県首脳部側では宅地全面復旧を要望したため、大規模擁壁整備を補助事業採択できるように再検討した。庁内の調整会議で、1)と3)をミックスする案が出され、設計、住民説明会が実施された。
○しかし、その直後、新聞報道により宅地の安全性に疑問があるとの記事が掲載され、住民側の反発が見られたことから、団地上部に緩衝帯の整備・必要用地買収の要望が住民側から提示され、県側では関係住民の意向集約ができればそれに応ずるとし、この案で事業推進となった。
2)事業実施方法
○湯谷団地の復旧については、被災を免れた下部の宅地を保全し、そこから下方の居住者に心理的圧迫をかけないように、3段のコンクリートとブロック積みの擁壁を段階状に設けることとし、宅地復旧を行った。
3)発生した課題
○地すべりによる目標物消失により公図の無い地域では、境界が不明となり、その確定が最大の問題となった。地権者からの要望で、長野市博物館所蔵地図、地元で有する地図、戸隠有料道路買収図面等から、境界を確定するための図面を作成し対応した。
4)適用事業/事業費
○都市施設災害復旧事業(堆積土砂排除→下水管復旧)、市道及び普通河川災害復旧事業を適用
図 湯谷団地被災状況
図 湯谷団地復旧計画図
○方針:建設中の養護老人ホームの建設を早め、さらに2,3の老人ホームを建設し、松寿荘の入居者全員を入所させる。
○構造:RC造平屋4,900㎡、各部屋から車椅子で直接外部への避難を可能にしている。
2)経過
○この間、松寿荘に入居していた老人は、養護老人85人が9カ所の養護老人ホームに、特別養護老人85人は4カ所の特別養護老人ホームに分散されたが、旧県消防学校を改築し、養護老人85人を入所させた。建設が進んでいた矢筒荘が4月に完成し、特別養護老人86人が入所した。
○被災した松寿荘は、長野市上野の旧結核療養所跡地に全面移転、新築され、61年1月30日に工事着工。10月に入居者の引っ越しを実施。
○建設費:1億3,000万円